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2007年5月17日 (木)

ロシア無神論

ロシア的無神論の原点に、神学問題があったことをベルジャーエフは明確の後世に伝えている。

「『私はあなたの哲学者のガウンを尊敬する』とベリンスキーはヘーゲルに対して述べる、『しかし私は次のようにあなたに告げること光栄とする--たとい発展のはしごの最上段まで、よじのぼることを許されたとしても、そこでもなお私は私の生活と歴史とのさまざまな状況の犠牲になったすべての人々、偶然、迷信、異端審問、フィリップ二世、等々の犠牲になった人々について、はっきりした説明をしてくれと要求するだろう。それが聞かれないなら私はその最上段からまっさかさまに跳び降りてしまうつもりだ。私は私の血をわけた兄弟たち、私の骨を骨とし、私の肉を肉とする人々について心の平和が得られない限り、たとい贈り物としてでも幸福など欲しくない。不調和とは調和の一状態であるとひとは言う。たぶん音楽好きにはそれは愉快な、なぐさめになる言葉だろうが、自分の経験の上で不調和を奏でる役割を運命から授かった連中にとっては、あまり愉快にも慰めにもならないだろう。』これらの言葉はその後のロシアの問題にとってきわめて重要である。ここには悪の問題、苦悩の正当化の問題等、根本的にロシア的な問題であり、ロシア的無神論の根源となった問題が提起されている」(『ロシア共産主義の歴史と意味』ベルジャーエフ著)

こういう問題は西洋の神学の中では、余り、深刻な問題として提起されてこなかったのではないだろうか。また、ベルジャーエフのキリスト教理解の中で、どういうかたちで反映しているのか、それには関心がある。

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コメント

ベリンスキーの問いに対して、いくつかの応答を試みてみたい。
①自分に与えられる贈り物としての幸福を拒否する人は、それが自分の生きることの目的であることを拒否しているということで、自分を謎と化しているのではないか。そして、そのような自己の在り方は、逆に周囲の隣人の迷惑になる可能性がある。召命を拒否したヨナが、その後、どうなったか、考えればよい②自分が救われるということは、自分の救いの問題だけではなくして、隣人の救いの問題でもあり、宇宙の救いの問題とも無関係ではない。だから、隣人や宇宙の救いを考えるのであれば、自分の救いを求めるべきではないだろうか。

投稿: | 2007年5月17日 (木) 16時41分

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