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2007年5月18日 (金)

実存的解釈

 創造活動は宗教的啓示を前提する。その限りで聖書の必要性を認める。しかし、聖書の非実存的解釈に対して、あくまでも実存の立場から解釈していく。創造活動は聖書理解を実存において受け取っていく。

 ベルジャーエフが教会から自己を区別するのはなぜか。それは教会には、彼の体験を、常に現世的な地上的な諸図式で翻訳してしまうからであろうか。ベルジャーエフはキリスト教の真理を語りつつ、なお教会的でないという、キリスト教に対する矛盾した態度はこのように説明されるかと思う。

 彼は聖書服従主義ではあるが、聖書隷従主義ではない。聖書の哲学的実存的理解の立場であって、科学的実証的理解の立場ではない。人間は何か客観的権威が成立すると、すぐそれに非実存的に結びつく。それは宗教的啓示としての聖書に関しても同様である。しかしベルジャーエフはそのような客観的権威なるものを正教徒らしく認めない。ただ、彼の認めるのは実存のうちに自由という道を通ってやってきた分断的でない、全一的な宗教的啓示のみである。

 ベルジャーエフは媒介的な教科書的聖書研究を飛び越え、すぐ聖書の奥に、背後にある存在に参与する。実存的に参与する。そして、その参与において、聖書を意味として自己のうちに具体的に取り入れる。

 彼にとっては、まず人間の実存が最高に重要である。「神は実存する」という彼の言葉は、実存である主体の彼方にのみ神が可能なのであって、存在である人間には神は現れたまわないという意味であろう。その点で、理論理性ではなく、実践理性の彼方に神を見ようとしたカントの立場に類似している。

 西方教会の中に、ベルジャーエフのような人はいなかったのではないだろうか。ドグマを重視する立場からは、彼の教えを、そのまま受け入れることも困難かも知れない。しかし、解釈を付して、受け入れることはできる。そのような受容があれば、教会は内的に更に豊かなものになっていくだろうと思う。

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