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2007年5月14日 (月)

ソボルノースチ

 ベルジャーエフと内村鑑三とは、前者が哲学的、後者が科学的である点で違いがある。しかし、二人とも詩人であった、と私は思う。また両者とも自由と独立を重んじ、預言者的であった。ベルジャーエフの終末論的キリスト教と内村鑑三の無教会も似ている。

 無教会は、内村鑑三の宣教師との衝突から生まれたプロテスタント教会における派生的現象であるなどと言ってはいけない。現代にあって、実存主義が最も親近感を覚えるキリスト教形態は無教会であると思う。また、無教会は個人主義的、ひとりよがりのキリスト教と言ってはいけない。救済史の側面からは、もっと積極的かつ重大な要素を持っている。

 無教会は、ロシア教会の「ソボルノースチ」と同じ理念を持っている。両方とも、教会の本質そのものである。ベルジャーエフはソボルノースチについて、次のように説明する。

 「ロシア教会の集り(ソボルノースチ)は、司教会議や公会議、その他いかなる権威をも認めず、ひたすら聖霊と信者との愛による交りを目的とするものである。国家や社会には、外面的なしるしが存在するものである。ところが、ソボルノースチには、このようなしるしは存在しない。ソボルノースチは、まさに聖霊の秘蹟的生活である」(『愛と実存』138頁)

 内村鑑三が無教会主義で主張したかったのは、まさにこのソボルノースチなのではないだろうか。内村鑑三は死後、自分の聖書研究会を解散させた。彼は外面的なしるしの存続を認めたくなかった。いや、生前、それを考えていたのだが、結果的には集会の解散ということになった。何か示唆的である。

 ソボルノースチの言葉は、ベルジャーエフの著書に出てくる。しかし、余り、注目されて来なかったように思う。関心を寄せる前提が、日本人キリスト者にないからなのだろうか。

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