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2007年5月29日 (火)

創造

ベルジャーエフは「創造活動」ということを繰り返し語っていた。創造というと「無からの創造」として、これは神にしかあてはまらないと思うかも知れない。その限りでは、そうであろう。その定義では、人には創造活動は出来ない。しかし、別の意味で使う人もいる。

『トマス・アクィナス』(山田晶責任編集、中央公論社)は「人間の『創造』」という項目で語っている。この創造は「創造活動」のことである。

「かかる「神の似像」としての人間が、神の似像であるかぎりにおいて為すことがらは、或る意味において、人間に為しうる「創造」であるということができるであろう。何故ならば、人間が自由なる行為によって世界のなかに造り出すものは、ただかかる自由の行為によってのみ世界のなかに存在するのであって、単なる自然のはたらきによっては、けっして生ぜしめられることのないものだからである」(62頁)という。

要するに自由意志が前提にされていて、その自由意志によって生み出されるものが、ここでは「創造」と言われている。しかし、そこで、では自由意志による作品はすべて創造と言われるのか、と問われるが、そうではないという。「自由にもとづく秀れた行為が創造の名に値する」(62頁)という。では、その「秀れた」というのは、どういう意味か。「人間的行為のなかで、最も秀れた行為とは何であろうか。それこそは、人間が神に戻ることである。そして人間の行為は、それが神に戻ろうとして神に向かう運動であるかぎりにおいて、たとえそれが外見にはいかに些細な行為であろうとも、「秀れた行為」であり、それこそは真の意味で人間の創造なのである」(62-3頁)ともいう。

要するに、聖化の道において、自由意志において、新生と栄化というすべての人を含む人類の目標を指し示す内容の作品を作り出すことは、それがどんなものであっても、創造なのだということである。

しかし、現実は、聖化の前の段階で、人は盛んに「創造活動」を行っているのかも知れない。キリスト者としては、そんな「創造活動」の成果を無視したり、排除するのではなくて、その目標に至るまでの道筋を作ることが求められているのかも知れない。

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