« 還相と往相 | トップページ | 魂の落ち着き »

2007年5月30日 (水)

再臨主

毎日新聞朝刊(07年5月30日)に、統一教会の名前を見た。「統一教会に賠償命令 東京地裁『恐怖あおり献金。違法』」という見出しがあった。

大学紛争が一応、終わってからも、統一教会は活発に大学で活動していた。私も早稲田大学で、その話を聞いた。Oさんが講師であった。

「イエスの活動は失敗だった」という。なぜか。「ユダヤ人がイエスを受け入れなかったから」。私は「かちん」ときた。「失敗とはなんだ」。

そして、今。

「再臨主が来ている。だから教会は、その人を受け入れたら、約束が成就するのだ」。その時、再臨主と、はっきりは言わなかった。しかし、その後、統一教会関係の話の中に、この言葉が使われていた。

今の時代、教会は、イエス時代のユダヤ人の立場にある。だから、教会が「再臨主」を受け入れれば、新しい時代がやってくるのだ。統一教会が、既成の教会に執拗にアプローチするのは、そのためのように思った。実際、その後、教会へのアプローチが別の教会の名前を通して行われたこともあった。しかし、かかわり始めた機関から「排除」された。

再臨は既成、歴史的教会の教義であり、それを否定することはできない。日本では再臨運動というものがあった。しかし、どういうものか、再臨論では意見は分かれている。再臨前千年王国、再臨後千年王国、無千年王国と、黙示録の記述をめぐって、解釈が一つではない。統一教会もまた、別の、新手の解釈を提供しているのかも知れない。

統一教会の経典ともいうべきものに、『原理講論』というものがあった。読みようによっては、興味深い内容でもある。しかし、大学紛争の中で、体制側の突撃隊のようなイメージもあり、一部の体制側の管理者的立場の人たちからは共感を得たかも知れないが、全体の雰囲気の中では、危険視され、排斥されてきたように思われる。

そんな中で、N神父が、その教義を詳細に調べて、カトリック教会としての見解をまとめた。それをもとにした教会の公の声明は「統一教会はエキュメニズムの対象ではない」といった簡単なものであった。しかし、その意味するところは重大であった。なぜなら、「統一教会をキリスト教と認めない」という意味が込められていたからである。統一教会の若者たちにショックが走ったと思う。正式名称には基督教の文字があるからである。しかし、残念ながら、その時の神父の論文は雑誌には公表されていたが、公に、また真面目に、多くの人たちによって議論されなかったと思う。昭和60年秋のことであった。

統一教会に関連して裁判が続いた。しかし、それらは、この教会の本質を問うというよりも、その本質の結果、現れてきた社会的影響が問われたものであった。本質は教義である。そして、もちろん、裁判では教義の是非は問われていない。

統一教会の問題提起は、今も続いているのではないだろうか。すなわち、再臨とは何か。

|

« 還相と往相 | トップページ | 魂の落ち着き »

コメント

統一教会の正式名称は「世界基督教統一神霊協会」であり、「協会」と書かれている。日本のキリスト教界でも当初は「統一協会」という略称が使われていたように思う。しかし、いつの間にか、統一教会になり、それで統一されてきたように思うが、キリスト新聞では、「統一協会」の略称になっている(07年3月24日、1面トップ)。同紙も、以前は、統一教会であったが、表記が変わったのかも知れない。

あの毎日新聞の記事でも、統一教会の略称が使われていた。そして、クリスチャントゥデイの記事では、「統一協会」表記になっている。

教会と協会では、受け取る側の印象は違う。協会であれば、その中に教会があってもいいかも知れない。

投稿: | 2007年5月31日 (木) 14時17分

再臨主というのは、「再臨のキリスト」のことである。

内村鑑三が再臨運動をやめたのは、自称「再臨のキリスト」と名乗る人が現れて、薬が効きすぎたと思ったらしい。だから、今、そんな人が現れても、おかしくはないのである。

イエス自身、終わりの時には、自分がそうだと言う人が現れるだろう、と言っている。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マルコ13・6)、とか「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」(ルカ21・8)と言われている。

しかし、救いを待望している人類の、いや世界全体の苦悩の現実が、その背景にある。その背景がなくならない限り、再臨のキリストを名乗る人もいなくならないだろう。

ところで、再臨のキリストは、女性から生まれた人として来るのだろうか。教会は、そう考えているのだろうか。そこは、あいまいではないだろうか。

「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(ルカ21・27)とか、「あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ26・64)とか言われている。そのような顕現の仕方は、地上の人、われわれの中の一人ではないようなイメージがある。しかし、そんなイメージだと、「信じられない」という反応もあるかも知れない。

統一教会の重要な問題提起の一つは、再臨のキリストは、われわれと同じ人間として現れるということではないだろうか。

しかし、もし、再臨のキリストが来たのであれば、教会は、それを即座に認めるのではないだろうか。聖霊が、それを明らかにするのではないだろうか。再臨のキリストが、教会に対して、「どうか私を認めて欲しい。受け入れて欲しい」と懇願するの図は、どう考えても、新約聖書の再臨のイメージではないのではないだろうか。

それに、そうなったら、教会は、中でもローマ教会は、その歴史を終えなければならない事態に追い込まれると思う。教皇はペテロの後継者というのだけれど、教皇以上の権威者が再臨のキリストなのだから。恐らく、それが誰にでも分かる、再臨のキリストの客観的証明なのではないだろうか。ということは、再臨のキリストはカトリック教会に接触しなければならないのである。

統一教会にもし「再臨主」がいるのであれば、是非とも、そういう手続きを踏んで欲しいと思う次第である。

投稿: | 2007年5月31日 (木) 18時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 還相と往相 | トップページ | 魂の落ち着き »