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2007年5月28日 (月)

人間とは

「ピエティストの先駆者ヨーハン・アルント(1555-1621年)は、『真実のキリスト教』という本で、新プラトン主義の影響下に、人間はそもそも神の像にかたどってつくられたものであることを強調した。人間は堕罪(楽園追放)によって、この像をうしなったが、どんなに堕落しても「神にかたどったもの」としての本性は消えないというのである。ここには、神と人との関係をプラトン的なアナロギー(類比)として考える思想がある」(『非戦論』富岡幸一郎著、NTT出版、105頁)

これが宗教改革の核心的問題だったのだろうと思う。神の像は失われたが、同時に失われていない、という。このような言い方は矛盾ではないのか。

そこで、神の像と神の似姿の二つを考える。神の像とは人間の定義であり、神の似姿とは神との交わりである。堕罪で失われたのは神の似姿であり、神の像ではない。そして、神の似姿の回復は、神の像の力では不可能である。こう言えばいいのである。

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コメント

「われわれは人間のうちにある神の像と姿を考慮しなければならない。ひとはこれを最も堕落したもののうちにさえ認めるのである。こうしたものがドストエフスキーの倫理学である」(『ドストエフスキーの世界観』ベルジャーエフ著)

ここでは、像と姿の関係が分からないが、何か同じ意味で使われているかも知れない。

投稿: | 2007年5月28日 (月) 13時22分

『トマス・アクィナス』(山田晶責任編集、中央公論社)では、神の像と似姿との区別がされていない。ただ、似姿の言葉だけがある。しかし、似姿には二義性があるのだから、別の言葉にした方が分かりやすいと思う。すなわち、像と似姿である。

「一つは、人間が人間であるかぎりにおいて、自然本性的に「神の似姿」であるといわれる場合のそれである。この場合の「神の似姿」とは、人間が理性的存在者であり、自由の主体であることを意味している。この意味ではすべての人間が、例外なく人間である限りにおいて、「神の似姿」である。もう一つは、人間が神に戻り、神と一致することによって《神に似たもの》に成るという意味での「神の似姿」である。これは人間の完成された状態であり、すべての人間がかかる完成に至るわけではない」(63頁)

この書き方だと、堕罪の結果、人間は神の似姿を失ったけれど、神の似姿は残っている、という言い方になって、何を言っているのか紛らわしいのである。

投稿: | 2007年5月28日 (月) 19時42分

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