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2007年5月11日 (金)

賀川豊彦論

「賀川は、自分のイエス観が「イエスを人間の水準に引き下げ」る一種の冒涜であるという非難を一般のキリスト教徒から受けていることを認めながら、逆に彼らは「イエスの十字架と復活のみを説いて、人間的部分をかえりみない」と批判する(全1・318)。あくまでも「人間イエス」の模倣に徹しようとする賀川にとって、“神の子イエス・キリストの十字架上の死による人類の罪の贖い”という福音のみに安住しようとするキリスト教は、「きわめて理屈っぽい」教条主義的な宗教にすぎなかった」
(『近代日本キリスト者の信仰と倫理』鵜沼裕子著、聖学院大学出版会、154頁)

「全1・318」とは、賀川豊彦全集第1巻・318頁の意味。

引用個所を、どう理解したらいいのだろうか。賀川の意識は聖化にあり、批判者の意識は新生に向けられている、というべきだろうか。

教会は聖化を論じるべきと思う。新生は瞬間的であり、繰り返すものではない。洗礼が繰り返されてはいけないように。だから、教会の中で、新生(信仰義認)を繰り返し説くのは、既に誕生し、成長が必要な人たちに対して、誕生について語っているようなものかも知れない。新生(信仰義認)は、この世に向けて語られるべきメッセージと思う。

ルターが教会の中で信仰義認を語って、時代が変わったというのは、教会の中に現世が入り込んでいて、それが反応したのではないだろうか。

もし、教会が聖化論に真剣に取り組むのであれば、新たなる活性化を期待できるような気がする。霊性への関心もまた、聖化論への取り組みの一貫かも知れない。

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