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2007年5月15日 (火)

乱読

 大学の二年生の頃であったろうか、大学図書館の本棚に、『神の国とセザルの国』という本を発見した私は、セザルとはカイザルのことなのかなと思いつつ、その本を手に取った。ページをめくっていくうちに、キリスト教の用語があって、親近感を覚えた。私はこの時、はじめてベルジャーエフという名前を知った。

 それからしばらくして菅円吉著『ベルジャエフ』を読み、神の三位一体に対するベルジャーエフの認識論的説明に興味を抱き、また同じ菅氏の廿世紀思想におけるベルジャーエフ紹介に感心したりした。

 菅氏の書物にはキリスト教知識が分かりやすく紹介されていて、また快いリズムがあった。それは認識主体が表現の背後に隠れてしまっている「学者的」客観主義から認識主体を表現の中に表していくという、言ってみればキリストの受肉のごとき、精神の自己外化の過程を、読者として感じ取ったのであろう。

 さて私はそれから、ベルジャーエフの本を次々に読んでいき、常に変わらない、彼の真理に対する情熱と、キリスト教信仰による哲学的認識に感激しつつ、『ロシア思想史』『わが生涯』に読みふけった。

 『ロシア思想史』は私にとって一つの驚きであり、ロシアに対して非常に大きな親しみを起こさせた本である。ロシア思想史上、著名な思想家に対する彼の直観、洞察、そして理論構成に情熱を傾け、熱にうかされたように、理想社会を求め続ける精神的巡礼としてのロシア・インテリゲンチャ、そこには雄大なロシアの美しい自然があった。そのぼんやりした自然の背後に存在の意味を明かすところの黙示的・形而上学的光の一点を目指して収束していく人々の姿が浮かんだ。私は、ベルジャーエフが、有名なロシア映画『シベリア物語』『石の花』で、雄弁に物語っているロシアの性格を哲学の分野で実に見事に表現していると、感心せざるを得なかった。

 最後に『わが生涯』を読んで、私は心の底まで、深い満足を味わった。これくらい率直な人がどこにいるだろうか。これくらい劇的な生涯を送った人がどこにいるだろうか。そしてこれくらい現代に生きる我々に、キリスト教信仰による実存的な哲学的認識への道を提供してくれる人は、どこにいるだろうか。

 私はこの哲学的自叙伝『わが生涯』を読んで、ベルジャーエフが私の中に定着したという意味で、それ以前のベルジャーエフ熱は、より静かに、そして、より堅実になっていったと思う。

 それまでは、ベルジャーエフの人格の秘密、その人間性の比類なき魅力のために、彼の著書を次々に読んでいったが、この『わが生涯』で、それらの要求は、一応満たされたように思った。

 哲学は一般に個人的なものであり、その人の個性が、その哲学に現れるものである。だが、ベルジャーエフの哲学は、とりわけ、この傾向が強い。主観的思想家になればなるほど、その哲学は個性的になるであろうが、しかしこの主観的思想家が、キェルケゴールの「瞬間」を自己の意識生活の中に持っているとき、それは、単なる主観にとどまらず、精神界において重要性を持つ客観性に転換する。

 そしてこのような主観的思想家を理解するには、彼がどんな人間であったかを知る必要がある。聖アウグスチヌスにしてもニーチェ、キェルケゴール、ベルジャーエフにしても、実存的思想家はその説以上に、その人間が問題である。それゆえに、彼らには『告白』、『この人を見よ』『我が著作活動の視点』、『わが生涯』と、何かの形で自分自身について語る必然性があるのである。

 『わが生涯』は、彼の「螺旋登攀眺望」の頂上での風景かも知れない。

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