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2007年5月19日 (土)

実存弁証法

 あらゆるカイロス(瞬間)には深い永遠との接触があった。しかし、そのようにして得られた価値や意味も、それによって人間が解放されていくプロセスにあって、自然的人間、非本来的人間の幸福が目的化されていく。此岸的人間が中心を占め、永遠は見失われていく。そして、やがて転換が起きる。これが実存弁証法である。

 ある客観的価値の質的変化がそれを担う人間の交代とともに起こる。それはマックス・ウェーバーの説く、プロテスタントティズムと資本主義との関係にそのよい例を得るだろう。

 いや、実存主義そのものが、実存弁証法的展開のよい例を提供している。それは最初、キェルケゴールにより主張された。しかし、その後、キリスト教的契機が失われていき、無神論的実存主義が社会に歓迎されるようになった。キリスト教的契機を持たない実存主義を、果たしてキェルケゴールは考えることができたであろうか。

 カトリック教会は、そういう風潮に警告を出さざるを得なかった。

 カトリック教会では、実存主義に対しては、批判的な対応をしてきた。ピウス12世の「回勅」(フマニ・ゲネリス)は、「カトリック教義の土台を崩そうとする誤った見解」に、強い語調で警告がされている。その中には、進化論、偽りの平和主義、そして実存主義も挙げられている。実存主義に対して「変わらざる事物の本質に目をとめず、個々の実存にのみ注目するのである」と批判する。

 日本で、学問に生涯を捧げたドイツ人神父も、そんな回勅の精神を受け止めたのであろうか、実存主義への警戒感を表明している。

 「実存主義は克服されればならぬ何ものかである。なぜなら、実存主義をつきつめてみれば、それは、混沌として世界が崩壊するように感じ、自分は或る時期の終末に生きているのみでなく、事物が無となる終末そのものに到達したと痛感する最後の人間の生活感情であるからだ」(『マルキシズムと実存主義の間』ハインリヒ・デュモリン著)。

 その見解が、そのままベルジャーエフの実存主義に適用されるとは思わないが、一般には、その危惧を理解することができる。

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コメント

実存という言葉が、救済史と世俗史との両方で流行し、用いられる時、その意味しているところは異なる。

救済史において、キェルケゴールは、その言葉において、新生の発見へと秩序づけられていた。ベルジャーエフにおいては、その新生契機としての回心のあいまいさは残るとしても、聖化における活動であり、その限りにおいて、キェルケゴールからの発展・展開と見ることも出来る。

しかし、世俗史においては、新生という第一次的ゴールも隠されているが故に、そこではペラギウス主義への鼓舞以外の何ものも意味していないかの如くである。

投稿: | 2007年5月19日 (土) 14時10分

「この世界は決してベルジャエフの考えるような崩壊の世界ではない」(「ベルジャエフの哲学」シュルツェ著)とも言われる。

確かに世俗的実存主義に関しては、教皇の警告は、当っている面があると思う。しかし、その実存主義批判の中にキリスト教的実存主義も含めた場合、意見があってもいいとは思う。

投稿: | 2007年5月24日 (木) 11時05分

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