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2007年6月18日 (月)

創造活動

ベルジャーエフは、創造活動をせよというのであるが、その内容は何であろうか。

創造というから「無からの創造」を考えるなら、それは人間には無理なことである。では何を指しているのだろうか。

人間は「神の像」であり、また「神の像+似姿」である。前者は一般の人々、後者はキリスト者と考えている。

その時、創造活動の主体は、この神の像なのかも知れない。いや、神の似姿なのかも知れない。ベルジャーエフは、似姿における活動を考えているのである。

『カント』(岩崎武雄著)には、こんなふうに書かれている。

「主観が対象に従うのではなく、むしろ逆に対象が主観に従うという考え方は神の認識というものを考えれば、そこに何等の無理もなく成り立ち得るであろうことは明らかである。神の場合にはその主観的思惟によって、同時に対象が創造されてゆくと考えることができる。すなわち、対象が神の思惟によって存在せしめられるのである。この場合には対象は主観に従うのである」(61頁)

「認識論的主観主義という思想は神の場合には容易に考え得ても、有限なる人間の場合には本来解決困難な問題を含んでいるのではないであろうか」(62頁)

創造の原点は主観の中にある。神の場合はいいけれど、人間の場合には問題がある、と著者はいう。

しかし、人間はやはり何事かを生み出していく。それは「神の像」の力なのかも知れない。しかし、そこには、きっと「追い詰められている意識」があり、それが「創造」へと駆り立てるのだろう。だから、歪んだものが生まれてくる。それを調整するのが「神の像+似姿」を主体とする教会の活動なのかも知れない。

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