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2007年6月22日 (金)

足もとを見よ

「しかし、われわれは今こう言うことができる。歴史の意味は常に現在にある。そして、現在がキリスト教信仰によって、終末論的現在として理解される時、歴史の意味が実現されるのである、と。「わたしは歴史の意味を見ることができない。だから歴史の中へ織りこまれたわたしの生は無意味である」と不平を言う人は、次のようにいましめられねばならない。あなたのまわりを見まわして普遍史をのぞきこんではならない。あなたは自分自身の個人的な歴史( your own personal history )を見つめなければならない。歴史の意味は常にあなたの現在にあるのであって、あなたはそれを見物人のように見ることはできないので、ただあなたの責任ある決断においてのみに見なければならない。終末論的な瞬間である可能性が凡ゆる瞬間の中にねむっている。あなたはそれを目ざまさなければならない、と」(岩波現代叢書『歴史と終末論』ブルトマン著、201頁)

普遍史をのぞきこんだのがヘーゲルなのだろうか。キェルケゴール的批判が、この文章にはあるのかも知れない。

ところで、ヘーゲル的普遍史においては、アウグスチヌス的二世界論は、どういう取り扱いなのだろうか。弁証法的発展という「ねじれ」の中に、二世界の関係が含意されているのだろうか。

「終末論的な瞬間である可能性が凡ゆる瞬間の中にねむっている。あなたはそれを目ざまさなければならない」というのが宣教への召命なのかも知れない。

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