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2007年6月28日 (木)

仰瞻

仰瞻(ぎょうせん)という難しい言葉がある。「慕ってあおぎ見ること」と辞書に、その意味が記されていた。

内村鑑三関連の本を読んでいて、知った。あの、シーリー学長の教えを連想した。自分の心の中ばかり見ないで、十字架のイエスを仰ぎ見よ、と言われて、これが内村の回心になったというのである。だから、これは対象が特定されれば、救いに至る信仰、あるいは信頼と同じような意味なのだろう。

しかし、こうして救いをあずかった後、どういう変化が起きたのだろうか。内村は、その後も、自分の心を見るに耐えなかったのだろうか。そうではないと思う。

新生のあと、人は、自分の心に安住できるのである。自分の限定を「許す」ことができるのである。

だから、仰瞻とは、この世に対して語られている。キリスト者が聖化の道を歩むためには、別の言葉が必要かも知れない。

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コメント

ウェスレーは、「キリスト者の完全」という言葉を作った。これは知識で完全になることではない。厳密に見たら罪かも知れないが、自覚の中では、罪意識を形成しない場合、それは罪なのかというと、どこかで、ウェスレーは違うと言っているように思う。ここは議論があるかも知れないが、この面での完全ではない。

そういう中での、キリスト者の完全は、自分の心にキリストがおられるので、自分は、それで満足であるという表明が核心にあるのではないだろうか。自分の心を見るということが、以前は「避けよ」といわれたが、転換のあとは、それが必要になるのではないだろうか。

自分の心を見る、という方向転換、そこに神の言を聴くという姿勢。「キリスト者の完全」とは、そういう方向転換を示唆しているのではないだろうか。

そうした時、聖書が神の言葉であるという信仰が、自分の心の中で聴く言葉、直感に媒介されなければならないことになる。ここまでは、両方がともに共存している。

しかし、心の中の直感を優先した時、クエーカーの信仰になるのかも知れない。救世軍では、余り神学を言わないけれど、もし救世軍神学があるとすれば、このへんに位置しているのかも知れない。

山室軍平氏の長男・武甫氏の甫はクエーカーの創始者、ジョージ・フォックスのフォックスから来ているということを読んだ覚えがある。

投稿: | 2007年6月30日 (土) 11時10分

「経験からも聖書からも明らかであることだが、キリスト者は知識において完全ではない。又間違いから解放されるほどに、完全ではない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

投稿: | 2007年7月15日 (日) 17時02分

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