« 新生へのみちしるべ | トップページ | 生活法 »

2007年6月27日 (水)

新生の瞬間

新生の瞬間とは、どういう瞬間なのだろうか。それが人間にとって、重大な時である故、多くの人たちが証言し、また書き残してきた。ブルンナーは、次のように言っている。

「予言者的宗教の歴史認識について語ったとき、われわれは、その認識がけっして理論的認識たりえないと云うことを夙に見た。理論的意識は質的時間について、したがって歴史について、何ごとも知らないしまた知りえない。それはただ時計の時間を、量的で中性的な時間を、識るだけである。歴史意識、伸ばされた非図形的時間の意識は、世界の主としての神の認識とともに、かつそれによって、与えられている。主を主として認めること、それはけっして理論的意識ではなくて、優れた意味における実践的意識である。主の言を主の言として聴くとは、それをただ認識するばかりではなくて、承認することを意味する。而して、この承認は実存的決定である。これによって、わたくしの実存が処理され、わたくしは服従し、わたくし自身をその処理に托せる。この認識は同時に決断である。歴史を認識するとは真実になることを意味する。というのは歴史を認識するとは事象を真面目に受取ることを意味するからである。真面目さは、歴史的時間を時計的時間から区別する性質である。「いまこそ時なれ」--この言葉は一つの命法である。それは決断を要求する。「いまこそ最高[絶好]の時なり」と附言するとき、このことはさらにいっそう明瞭になる。時間が最高[絶好]の時(“hochste Zeit”)として、ウルティムム・テンプス(ultimum tempus)[最高の時を意味するラテン語]として性質づけられるとき、そのとき時間は完全に真面目に受取られており、そのとき人間自身もまた完全に真面目になったのである」
(『人間性の限界』ブルンナー著、有賀鉄太郎訳、アテネ新書51、85-6頁)

福音の宣教とは、こういう瞬間への招待である。

しかし、時間の不思議は、たとえば、キェルケゴール(1813~1855)など昨日の人のようにも思うが、日本で言えば、江戸時代の人なのである。

( hochste のoは、正しくは、oウムラウトです。)

|

« 新生へのみちしるべ | トップページ | 生活法 »

コメント

1813年というと、11代将軍・徳川家斉の時代で、高田屋嘉兵衛がロシア船に捕えられた(1812年)翌年である。また、1855年というと、ペリーが浦賀来航(1853年)の2年後にあたる。幕末の騒乱が始まったころに亡くなっている。

投稿: | 2007年6月28日 (木) 15時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 新生へのみちしるべ | トップページ | 生活法 »