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2007年6月23日 (土)

浅い日本人

「日本人は浅い民である。彼は喜ぶに浅くある。怒るに浅くある。…彼らの中より、偉大と称すべき何ものも起こらない。…人は何びとも、エホバの神に深くしていただくまでは浅い民である」

「日本人はまだ偉大ということを教えられないのである。ゆえに、たまたま偉大なる者が、その内に起っても、これを認めることはできない。実に情ない次第である。今日の日本人を相手にしていれば、人はだんだん小さくなるばかりである」

上記引用は、『日本のキリスト教』(北森嘉蔵著)にあった。内村鑑三の文章であろう。昔のキリスト者は、日本を掌中のものと見ていた。考え方が度外れていた。たまには、こんな人が出てもいいのである。

ところで、この本には、こんな言葉もあった。

「神は、教会と信徒とを、「歴史形成」に召し給う」

歴史形成には、歴史観が必要である。しかし、今の教会に、また信徒に、歴史観があるのだろうか。ないだろうと思う。だから、まだ神の召しを待っている状態なのではないだろうか。

こんな言葉もあった。

「<恩寵もサクラメントを通して信者の魂にそそがれる準物質的(セミフィジカル)なもので、プロテスタンティズムに於ける如き父なる神の人格的恩顧(フェヴォアー)ではない> これはカトリシズムについて述べられた文章であるが、カトリシズムの恩寵観に対する批判としては、ほとんど完璧にちかい」

コメントは著者の言葉であろう。準物質的の言葉は聖体を意識しているのかも知れない。しかし、恩寵は聖霊の実感の中にあるのだと思う。

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