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2007年6月29日 (金)

実存哲学の診断

フリッツ・ハイネマンの著者に『実存哲学 その生けるものと死せるもの』(Existenzphilosophie lebendig order tot?   by Fritz Heinemann)があった。

そこで著者は、いう。

「人間の創造的行為によって招来されるこの地上の変貌(聖化)などということは、幻想である」

これは創造的行為の定義いかんではないだろうか。ベルジャーエフは、創造的行為による聖化を考えているのだろう。なぜなら、聖化の火が、既に人に下っているからである。あとは、それを盛んにすればよい。それが、創造的行為だ、という解釈なら、それは幻想ではない。であれば、創造的行為こそ実存哲学の王道を行くものである。聖化の火が、人に燃え移っていけば、地上の変貌を期待できるではないか。

オリンピックでは聖火だが、「聖化の火」は、信ずる人の心の中にある。

「《思うに、絶対的なものを見いだすために懐疑からではなく絶望から出発しなければならないことを、たぶん高い値を払って経験するであろう時代が、もうそう遠くはない》」

懐疑からの出発はデカルトの出発であり、近世の原点であった。しかし、近代の後は、懐疑ではなくて、絶望からの出発である。それがキェルケゴールの出発であった。だから、キェルケゴールは近代の終わり、ポストモダンの預言者であったとも言える。しかし、その出発はすでにアウグスチヌスにおいても知られていたのである。

それを知れば、「これは何だ」という思いにかられる。

「ヤスパースの大仕掛けな試みにもかかわらず、われわれはいまなお実存論的論理学のニュートンを待つほかないのである」

「思考は一定の技術を必要とする。でなければそれは《筋道のない物思い》(ホッブス)にとどまるであろう」

日本には絶対矛盾的自己同一という「論理学」があるけれど。

「《非実存的哲学》は言語、あるいは記号およびそれの操作、学的命題の解明、あるいはただのおしゃべりに従事している」

「哲学とは全的な人間の表現であるべきで、単なる人間の知性の表現にすぎぬものであってはならない」

要するに、実存哲学だけが、自己を真剣に問う哲学なのだということである。

「ひとびとが故郷を追われ、根こそぎにされて、たえず脅かすされている破局の時代においては、人格の真の自己実現は極度に困難になってくる。それ故に、われわれは問わなければならない--哲学者たちは、ひとりひとり、はたして哲学者たるその自己を実現できているか。またその哲学は実際にはたらくものになっているか、それともたんに要求やプログラムにとどまっているか、と」

「実存哲学者たちは、自分たちが疎外を克服しうるという点で、マルクスやヘーゲルがそうであったように、自信があるわけでは決してない」

著者は、実存哲学は何ものかを得ようとしているが、得られるかどうか分からないという立場であろう。確かに、そんな実存哲学もあるかも知れない。しかし、それは世俗的な実存哲学である。それが登場したのは、歴史の質的弁証法の故であった。しかし、本来的な実存哲学は、そういうものではない。

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