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2007年6月 1日 (金)

「悪は被造物の進展の弁証法的な一要素でありうる、しかし悪は一手段であるがゆえにのみ、悪の反対たる善の顕われることを可能ならしめる。それから地獄やその苦しみの観念はどうかといえば、悪を永劫化し、悪に対する人間の無力を表現せんために用いられえたに過ぎない」(『ベルジャーエフ著作集6 神と人間の実存的弁証法』)

天国とか地獄とかは、人間の死後、行くところとされているが、死後のことを知っている人はいないはずである。と言うことは、生きている人たちに対する何らかのメッセージなのかも知れない。そのメッセージ性を、著者は、後半で解釈しているのかも知れない。

今、ここで生きている人間が一番、大切である。地獄というのは天国があっての地獄である。天国がなければ地獄もない。しかし、生きている今、天国が現れたのである。だから、地獄もあるに違いない。そう解釈してもいいのではないだろうか。

聖霊経験というものは天国の前味なのだから。地獄の苦しみで魂を威嚇するのは、余りよいメッセージとは言えないかも知れない。

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