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2007年6月14日 (木)

現代の理解

今、資本主義社会に我々は生きている。ところで、資本主義とは何か。

「資本主義の精神とは一口に言ってどういうものかといえば、利潤(金もうけ)が一の自己目的となっていて、何のため--たとえばぜいたくのためとか子孫に遺すためとか--というのではなく、ただ「貨幣のために貨幣を追求」する、しかもそれが倫理的にみて善きことと考えられ、日常生活を専らその目的のために合理化し組織する、といった精神なのである」(『宗教改革と近代社会』大塚久雄著)

要するに、「物神」の支配下に我々は生きている、ということらしい。この「物神」誕生の由来にキリスト教が関係したというのである。ウェーバーの名著が、それを指摘している。

「「プロテスタンティズムと資本主義の精神」という問題は、かなり古くから論究せられ、一連の研究史を形造りつつ、現在なお論ぜられつづけているが、そのうち画期的なまた事実上研究史の出発点をなしたのは、有名なマックス・ウェーバー(Max Weber)の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(Die protestanische Etihik und der Geist des Kapitalismus)という論文であった」(『宗教改革と近代社会』大塚久雄著)

「ウェーバーはプロテスタントの倫理そのものが何らかの仕方で資本主義の精神に化したなどと言っているのではない。彼の考えに従っても、プロテスタンティズムと資本主義の精神とは本質において別物であり、一方がいわば神中心であるに対し他方は富中心である。それにもかかわらず、ある時期においてはこの両者が相互に関連し合い、絡み合って現われ、そのさいにプロテスタンティズムが「資本主義の精神」の形成に対して決定的な、促進的影響を与えたと彼は言うのである」(『宗教改革と近代社会』大塚久雄著)

今の日本に資本主義の精神はある。しかし、プロテスタンティズムの倫理はないかも知れない。資本主義の精神をプロテスタンティズムの倫理で基礎づけるという試みもないだろう。

ただ環境問題が、資本主義の精神の限界を強力にアピールしているような気がする。その意味では、環境問題は、近代を超える試みなのかも知れない。

しかし、それでも、かつての近代の魅力というものは、プロテスタンティズムの魅力と重なっていたように思う。

「ヨーロッパの到る所プロテスタント的信仰が汎くかつ深く根を下ろして行ったのは健実な中産社会層であった。のみならず、近世に入ってよりめきめき国力が増進し来ったイギリスおよびオランダにあって、この国運の隆盛を双肩に担ったのはこのプロテスタント的中産社会層であった。プロテスタント的信仰の汎くかつ深く根を下ろすところ国運の隆昌を見たのは決して偶然ではなかった」(『宗教改革と近代社会』大塚久雄著)

近代日本は、やはりプロテスタンティズムに魅力を感じていたのだと思う。

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