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2007年6月 4日 (月)

全的堕落

「人間はその自然的能力によっては全く神認識に到達し得ないという弁証法神学者の主張は、神が単に人間から絶対に超越しているという理由からくるばかりではなく、また人間は本質的に悪化されたものであるということにもよっているのである。かく人間の本性を絶対に悪とする考えは、宗教改革者就中カルヴィンから発している思想であって、弁証法神学の根本的思想の一つである。是に依ると人間の本性は堕落しているので、決して善ではあり得ない。啻に人間の個々の行動並びに意思の態度に罪があるばかりでなく、人間はその本質まで悪に汚染されて、人間性そのものまで悪であるとする」(『近代思想と基督教』ハインリヒ・デュモリン著、258頁)

しかし、現実はどうなのだろうか。そんなに悪だろうか。そうは思えない。信徒でなくとも善良な人は多いではないか。どう説明するのか。一般恩寵がある。

引用は、カルビン主義の全的堕落を指しているかも知れない。それは特別恩寵に関するもので、現実をそれだけで説明していないのである。また、説明できないのだと思う。それでも、一番大切なことは、特別恩寵を受けることであるが故に、そこに力点を置いているのだと思う。

著者はカトリックの立場から、反論している。

「カトリック者にとっては、弁証法神学と異なり、人間から神へ至る道が存在しているのである。被造物と神との間の唯一の関係は、決してゴーガルテンが、その著『信仰と啓示』の中で述べているような絶対的否定の関係ではない。神から創られた人間は、その最も内なる本質において、神に達することを意図されて作られたものなのである」(前同、261頁)

「人間はその自然的能力を以て神を求め神を見出すことができ、又かくすることを神は欲しているのである」(前同、262頁)

「人間の理性は確実に被造物から、或いはその運動と秩序から、創られた神を認識することができるのである」(前同、263頁)

「カトリックの教えの方からみて人間の自然的能力、就中人間の理性と自由意志は大いに尊重されるべきものである」(前同、264頁)

これらはすべて、著者は一般恩寵論を知らないということを印象づけるのではないだろうか。しかし、同時に、自然的能力で、人間にとって必要な神知識のすべてに到達できるというのがカトリックの教えということになると、それは問題ではないだろうか。そのような自然神学の神は、人を救ってはくれないと思う。自然神学は、神知識のある部分までは到達できる。しかし、それだけでは、人を救うのには十分ではない、と言うべきではないだろうか。その十分ではないという点に集中したのが宗教改革者であり、弁証法神学者であった、と理解すべきではないのだろうか。

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