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2007年6月12日 (火)

洗礼

洗礼を受けないで救われるか。そういう問題がある。

無教会では、原則として洗礼と聖餐をしない。内村鑑三に「洗礼晩餐廃止論」がある。内村の学友であった新渡戸稲造が所属したクエーカーも儀式はしない。それに救世軍も洗礼・聖餐をしない。

もし、洗礼が救いに必要であったら、無教会もクエーカーも救世軍も、立場が悪くなるだろう。しかし、今、これらの団体はキリスト教の団体として、「教会」として認められていると思う。ということは、洗礼を受けないと救われないとは、今日では、なかなか言えない事態があるということかも知れない。

内村の弟子の塚本虎二の本を読むと、この疑問にこだわりを持っていたことが分かる。

昔、『カトリックとは何ぞや』(チャールス・ホッヂ著)という小冊子を読んだことがある。著者は長老派系の米国の著名な神学者であった。これはカトリック批判の本であり、そこに、こんなことが書かれていた。

「救いの約束はユダヤ人、或いはどの様なものであれ、外形的組織体の会員に限られたものではない事」

「神の御霊が宿っている凡ての真の信者は、彼らがどの様な教会組織と結合していようと、或いは全然その様な結合を持っていなくとも、キリストの体なる教会の一員である。十字架上の強盗は如何なる外形的教会の会員でなかったけれども、救われた」

「真の教会の会員となる条件は如何なる組織された団体に結ばれることでもなくて、イエス・キリストを信じる信仰である」

「人が外形的団体の一員となる事によって神の子となり、永遠の生命を嗣ぐものとなるという教理は福音の根底そのものをくつがえし、新しい救の方法を導き入れるものである。然もこれこそは、ロマ・カトリック主義の全体系が依拠している教理なのである。すべて洗礼を受けぬ人は永遠の生命を得られぬ、と云うのがロマ教会の教義である」

「我々がキリストを人々の前で口にて言いあらわす様に、又兄弟を愛するようにと命ぜられたと同じように、洗礼を受ける事を命ぜられていることは確かである。しかし此等は信仰によって服従する義務であって、救の手段ではない」

「洗礼の儀式がなくしては誰も救われず、洗礼によって人は神の子とされ、天国の世嗣となる、というような事を教える者は非キリストであり、「今や非キリスト多く起」って居る」

さて、どう考えたらいいのだろうか。

①まず、カトリック教会には、水の洗礼と共に「望みの洗礼」もある。しかし、ホッヂは洗礼の言葉で「水の洗礼」を考えているのだろう。

②418年5月1日、200人以上の司教がカルタゴで教会会議を開いて、ペラギウス主義に対するカトリック教会の立場を明確にしたが、その中で、原罪に関連して、幼児にも原罪はあると言い、こんなことを言っている。「洗礼なしには永遠の生命を受けられない。これらの考えを否定するものは異端である」

③ロマ・カトリック主義といっても、教会の長い歴史の中で生まれてきた結果であって、それらの経緯を調べてみなければ、真相は分からないと思う。今では、ラーナーの「無名のキリスト者」とか、「善意の人々」の理解によっては、あるいは別の批判が出てくるかも知れない。

④教会の事効論的理解が批判されているようだけれど、これはアウグスチヌスの立場であり、アウグスチヌス主義の著者の立場からは、当然、「なぜ」という問いが起きる事態であろうと思う。

⑤洗礼というものは「不可見的教会」への参入の「しるし」とみた時、「不可見的教会への参入」は、人の救いに「絶対」必要ではないだろうか。洗礼というものは、そういうものと理解すべきではないのだろうか。

⑥著者は、どんな外形的教会組織の会員であっても、またなくとも、と言うが、著者の所属するカルビン主義教会は他の教会に対して強力な批判的精神を有しているように思う。そこでは「どんな」ではない、別の判断が働いている。

⑦洗礼は「救の手段ではない」と言いつつ、「信仰によって服従する義務」と言うが、それは要するに、水の洗礼なくとも救われる、という意味なのだろうか。おそらく、そうだろう。であれば、服従義務の放棄も赦されるのではないだろうか。

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コメント

あるプロテスタントの牧師が、こう言ったことがある。「宗教改革のあとは、カトリック教会も一つの教派になった」と。しかし、カトリック教会の自意識の中には、自分は教派ではない、という意識が、どこかにあるのではないかと思っている。それでも、あの牧師の言葉にも、真理はあるのである。第二バチカン公会議後、カトリック教会も、エキュメニズムに積極的にかかわり出した。これは、自分も「教派の一員」という見方への接近であり、また容認でなければならない。そして、その中には、他教派排除的意識ではない、別の他教派容認的意識が強くなってきたという変化があるのではなかろうか。ホッヂの冊子は、第二バチカン以前に公刊されたものである。だから、その変化を知らない。しかし、この教会は公会議の変化を超えて、自己同一な面もある。その面に対して、冊子の主張は有効かという問いもあり得るとは思う。そう考えても、やはり現状はプロテスタント教会を異端視せず、認めているのである。そうでなければ、エキュメニズムに乗り出すはずがない。かつて、「統一教会はエキュメニズムの対象ではない」という声明を出したことがあったが、それは統一教会はキリスト教ではない、という見解を意味したのだから。

投稿: | 2007年6月13日 (水) 05時16分

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