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2007年6月25日 (月)

置換神学

新約時代にあって、キリスト教とユダヤ教との関係をめぐり、ユダヤ民族に対する神の恩恵は、ユダヤ民族のイエス拒否という罪の故に、ユダヤ民族からキリスト教会が相続したという理解がある。伝統的に、そう考えられてきた。置換神学という。

私のかつての上司は、一言、そんな立場を語ったことがあった。ユダヤ人の使命はキリストの誕生のためであり、そのあとは教会が、その祝福を継続している、と。ブルトマンも、そんな立場らしい。

しかし、ユダヤ人への神の約束、回復預言はまだ有効であるという理解もあり、置換神学批判を言う人もいる。

特に、民族回復預言はパウロの言葉として聖書の中にあり、聖書の霊感説によって、それを支持するとなると、どう解釈するのか、という問題となる。ユダヤ人の聖地帰還が聖書の終末預言の成就という見方もあり、内村の理解も、そういう線上にあった。バルトはユダヤ民族への神の約束は続いている、と考えている。

さて、ハルナックは、どう考えていたのだろうか。岩波文庫『基督教の本質』(山谷省吾訳)には、こういう個所がある。

「原始基督教史に於けるパウロの画期的意義を叙述する場合、彼が猶ほその存続を許したユダヤ教からの解放に関し蒙っていた制限をも挙げる必要があった。それは第一に彼は基督教的ユダヤ人が律法を持ち続けることは当然だと考え、もしくはそれを許したこと、第二にイスラエル国民に与えられた約束は、彼等に特に充たされるだろうと考えたこと、第三に何時かは全くイスラエルが救われるだろうという確かな希望を宣言したこと、である。基督教がユダヤ教から全く解放されたのは、パウロの後、無名の人々の手によってである」(298頁、第十講の注)

これによれば、ハルナックは「置換神学」支持者であり、ユダヤ人の特別な地位というものを、キリスト教の中では認めていないと考えられる。しかし、そういう解釈は聖書霊感説の中で許されるのだろうか。

この問題はディスペンセーショナリズムの聖書解釈とも関連する。そこではユダヤ民族と神との約束が中心で、キリスト教会の立場は「つけたし」になる。反置換神学的立場と言えるかも知れない。

ところで、最近は統一教会の立場もある。そこでは、やはり、キリスト教会から統一教会への置換神学が語られているのだと思う。少なくとも、私の印象では、そうなのである。

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コメント

ところで、ディスペンセーショナリズムと、最近の置換神学批判とは、どう関係しているのだろうか。出所は別とは思うけれど。

投稿: | 2007年7月 6日 (金) 13時36分

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