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2007年6月25日 (月)

輪廻転生

輪廻転生については、聖母文庫『カトリックの終末論』はカトリック信仰において、はっきりと否定しているのであるが、『キリスト教とは何か』(カール・ラーナー著、エンデルレ書店)では、可能性を指摘している。こう言われている。

「ここでさらにもう一つの問題を指摘しておきたい、すなわち、いわゆる「中間の状態」に関するカトリックの、ひとまずは非常に古風な想像の仕方が、ひょっとすれば次のような可能性のための出発点になりうるかもしれないということである。それは東洋の諸文化において普及しており、当然のようにみなされている、いわゆる「魂の変容」、「生れ変わり」に関する教えを、よりよく積極的に取り入れるという可能性である(訳注・ラーナーは東洋宗教への好意から、輪廻思想の積極的解釈が有りうることを暗示している。東洋における比較宗教学・神学の今後の課題であろう)。ただし、そこで前提となっているのは、少なくともそのような「生れ変わり」が、あたかも永遠にとどまることなく、時間的に継続される人間の宿命であるかのように理解されてはならぬ、ということである」(581頁)

これは「いわゆる「煉獄」の教え」の項目の中での文であり、煉獄と輪廻転生との関係を考察するのも無意味ではないという示唆であろう。しかし、輪廻転生が永遠に続くという見解に対しては反対している。

要するに、この世で新生に至らなかった魂も、死後、別の世で救いを得るというのではなくて、この世に転生し、この世で新生を得る機会を与えられるという想像の妥当性であろうと思う。

ところで、内村鑑三は、「死後の救い」の可能性を考えていたという指摘もある。これは『改革派教理学教本』(岡田稔著、新教出版社)の中の「非信仰的な死後観」の項目の中にあるもので、次のように書かれている。

「再試験説あるいは死後入信可能説である。内村鑑三もこの説をとっていたらしい。これによると、死後にも現在と同様に何らかの形で福音に接する機会がありまた信仰をえるチャンスがあると見るのである。これが極端に異教化すれば来世を輪廻的に現実界と変わらぬ経験的世界とすることになろう。日本人の長い異教的思想の慣れからこうした考えが浮かび出るのではなかろうか」(499頁)

内村のどの文章を指しているのかは確認していませんが、気持ちとしては分かるような気がしています。

洗礼を受けていない、信仰告白していない人は、日本に大勢います。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10・10)が救いの道、条件であるなら、大多数の日本人は死後、どうなるのでしょうか。

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コメント

『改革派教理学教本』(岡田稔著)には「非信仰的な死後観」の一つとして煉獄の教理に対する批判も述べられている。次のようである。

「ローマ・カトリックの煉獄の教理である。その説では受洗している限り人間はいつかは必ず救われるのである。しかし特別に聖人でない限りは死後にもなお償わねばならぬ罪が残る。それが償罪されるまでは煉獄につながれる。だから煉獄は地獄ではなく、その苦しみは、償罪の意味を持つ。この教理はカトリック教会の最も悪い思想の一つである。人間が罪を償いうるという功績思想と死後にも救いが可能だという人生の倫理の厳粛性を割り引く甘い考えとが含まれている」(498頁)

手厳しい批判である。ところで、受洗とは水の洗礼を受けるという意味なのだと思う。しかし、カトリックでは「望みの洗礼」というものも認めている。これは心の中でのことであり、外に現れた儀式ではない。だから、形式的なカトリック信者でなくとも、救いを認めているとも言える。

苦しみは、基本的には罪の結果であるかも知れないが、ドストエフスキーは、苦悩に償罪の意味を考えていたという。

罪を償うということは、罪を贖うということではないと思う。罪を贖うことはキリストにのみできること。人には出来ない。しかし、償うことはできるかも知れない。

「死後にも救いが可能だ」と著者はカトリック教理を見ているようだが、教会では、現世で救いの端緒(洗礼)を得なければならない、それがない場合の死後の救いはない、と言っているのだと思う。「死後にも救いが可能」とは言っていないのだと思う。輪廻転生を認めていないのだから。

この洗礼というのは、事効論的理解が強いかも知れないが、その理解には歴史的な経緯が必要かも知れない。しかし、不可見的教会への「参入」を「洗礼」と考えれば、洗礼なくして救いはないとも言えるのではないだろうか。

もちろん、その洗礼は水の洗礼ではなく、霊の洗礼であり、だから、霊の洗礼があれば、水の洗礼は必要ないという見解もあるけれど。ただ、歴史的に見える教会の必要性が認められれば、それに入る儀式としての洗礼も必要と認めたのだろう。

投稿: | 2007年6月25日 (月) 16時02分

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