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2007年6月22日 (金)

救いの範囲

救いを伝える人間は、救いの範囲をどう考えるか、それは大切な問題であると思う。

ところで、カトリック教会からは全く違う見解が聞かれることがある。「教会以外に救いがない」ということ、そして、この教会はカトリック教会を指しているとして、プロテスタント教会は、これまで批判してきた。カトリック「原理主義者」の間には、この見解の繰り返しがなされているかも知れない。「第二バチカンはとんでもない。他教派、他宗教への妥協などありえない。帰正以外に救いはない」と。

しかし、また別の声も聞かれるのである。

たとえば。

「教会は、たとえ思想信条は異なっても、人がその良心に従って神を求め、善を行うとき、自らに落ち度がない限り、神のみが知る仕方で救いに達すると確信している」

この言葉は、他教派、他宗教、あるいは無神論者であっても救いはあるのだ、と言っているようであり、そう受け止める人もいるかも知れない。

そして、カトリック「原理主義者」の言葉と、後者の言葉は、普通の感覚では矛盾であろう。いや、カトリック「原理主義者」は、破門の警告を受けているのだから、「間違い」なのであり、後者が正しいのだ、という解釈もあるかも知れない。しかし、プロテスタントのカトリック批判は、前者に対してなされてきたのである。

前者もまた、教会の言葉で「見えない教会」を指しているのであれば、プロテスタント教会の信徒も反対はしないであろう。後者に対しては、ではイエス・キリストに対する回心は救いに必要ではないのか、といった疑問が起きるかも知れない。

こういう疑問というものは、語られ、また聞かれるべきものではないだろうか。それによって、真理はより明らかになるのであろう。

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