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2007年6月 4日 (月)

先生の面影

「人は先生を呼んで柏木の聖者といった。然し私は普通の語義に従う限り聖者という語は先生にふさわしくないと思う。神に酔う円満無碍な心境は決して先生のものではなかったであろう。先生は主我的な人である。私は先生ほど純粋に痛切に霊界を慕い求めた人を多く知らない」

「具体的に語れば、先生は一切の現世的栄誉を断念することを天国への欠くべからざる準備となし、此の世に於て輝くことを彼の世への道を暗くする所以と考えられた。
 もともと先生はいわゆる円満な高徳者ではない。主我の人である。激情の人である。私は先生を精神的英雄と、詩人的天才的英雄と、否、端的に詩人と呼びたい。然し、聖者と呼ぶにちゅうちょする所以なのである」

「先生を一個の勇敢なる内面的戦士として見ることは私の一私見たるに止まる。これに反して社会的戦士としての先生は一世の承認した事実に属する。人生はまことに戦いである。何人の生涯か戦にあらざるし生涯があろう。然しながら先生の生涯は言葉の遙かに狭い、遙かに深い意味に於て戦争そのものであったと言えると思う」

「先生は氷にあらざれば火、暗黒にあらざれば光明という性格であった。なまぬるい中途半端は断じて先生のものでなかった。烈しい光は単なる光と思われ易い、然しそれは強い影が消された所に成立する。光のみを見て影を見ざる人も、影のみを知って光を認め能わざる人も共にものの一面を捉えたに過ぎない。先生は強烈な光である為にその影も濃かった」

「何が見当違いだといって、先生の如き天才的詩人的宗教家に於て、円満なる性格を見出さんとするが如きはないであろう。一般に天才者を生むことは人類の冒険である。平穏安易な事柄ではない。尋常平凡な規準をもって天才者を批判せんとするのは一種の冒涜というべきであろう」

以上、『忘れえぬ人々』(天野貞祐著)から

先生とは内村鑑三のことである。彼は「サムライ・クリスチャン」以上の人物であったと思う。

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