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2007年6月 8日 (金)

ミュラーの信仰

信仰によって、多くの孤児院を設立・運営していったジョージ・ミュラーの本を読んだことがありました。

そこには、「神の恵みは分けることによって増し加えられ、これを利己のものとすることによって失うという不思議な法則がある」とありました。霊界の法則とでもいうのでしょうか。

確かに、福音というものは伝えなければ、自分を破壊するかも知れないという性質を持っているかも知れません。もちろん、そこには信仰の拒否という決断があるのです。

恵みが満ち溢れて、外に流れ出ようとしている時、そこに道管がないならば、耐えられないとの思いがするかも知れません。確か、フィニーの回心記には、そんな個所がありました。

しかし、恵みの流れが滞る時、信仰の拒否の時が来るかも知れません。そこに、どんな理屈があろうとも、それは、恐ろしい、また危険なことであり、それを通して自分のアイデンティティが失われてしまいます。

ということは、福音というものは伝播しないではいない、という根本的な性質を持っているのだと思います。

だから、教会というものは閉鎖的性格を持つものではなくて、限りなく開放的なものなのでしょう。敷居が高いとか、閉鎖的とか言われる教会の印象は、福音の本来の性質とは違うものかも知れません。

「すべて得たところのものはまたこれを与えよ。そは、神はその御子をも与えた給うたから」ともありました。

得たところのものを与えることが、得た人の安全につながる。そんな関係が福音の受領にはあるようです。

「人を導びこうとする者はみづからが絶えず導かれている者であり、人に教えようとする者はみづからがつねに学ぶ者でなければならない」ともいうのです。教えることによって、学ぶ意欲が出てきます。教師論が盛んですが、本当に教える人は、学ぶ人でもあるのでしょう。そして、この循環の中に、真の成長があるのだと思います。

こうして、その人は恵みの高嶺に引上げられていきます。最初は、ちっちゃな信仰でも、霊界の法則に従い、福音を与えることに徹底していく時、いつのまにか大きな仕事をしていることに気づくのだと思います。

そして、こんな問答の紹介もあります。

問「汝は余り高く挙げられるところの危険性を持つ」
答「私は現在においてもその危険を持っているが、しかし主の保護において謙遜に保たれておる。私はこの恐れによって前進を妨げられてはならない。むしろ主に祈って私謙遜な心を与え、主のみが受けるべき栄光を決して奪わないようになし給えと願うべきである」

信仰の高嶺にある時には落下の危険があります。逆に低地におれば、落下の危険はなく、その点、その地の方が「安全」という錯覚に陥るかも知れません。

しかし、真実は、信仰の高嶺において、落下の危険を避けていく生き方の中に、その人にとっての、真の「安全」があるのだと思います。

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