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2007年6月18日 (月)

ウェスレーの運動

ジョン・ウェスレーに関する本は現在、種々出版されている。以前、小冊子のようなものが出ていたが、なかなか迫力のあるものであった。こんな内容であった。

「もし神が何かの御目的のためにウェスレイを起ち上らせ給うたとすれば、それは霊的基督教を復興させんが為でありました。その霊的基督教とは即ち信仰による義認と御霊の証及び全き潔めということでありました」

ここでは三つ挙げられている。「信仰による義認」「御霊の証」「全き潔め」である。あとの二つは「聖化」に関するもので、最初の一つは文字通り「義認」に関するものである。要するに、義認(新生)と聖化について、彼は語ったということである。ウェスレーの信仰を継承する教会は、だいたい、この二つは高く掲げていると思う。

しかし、この主張をしていく中で、この世は、それをありがたく受け入れたのではなかった。強烈な反対が起きたというのである。

「私たちは到る処で狂犬のように取扱われた。説教にも、新聞にも、種々なる小冊子の中にも、私たちは前代未聞の怪物として描かれていた。然しそうした事も私たちを動揺させるには足らなかった。私たちは凡ての階級の人々に信仰による救を証しつつ進撃した。私達は自分達の信仰の勝利によって平和を得るまでは自らの命を惜しまぬ輩であった」

普通の人間的な安全感覚からすれば、こんな状況は避けるであろう。平和に、そして仲良く暮らすことを心がけるのではないだろうか。宗教はまず、そのように教えるのではないだろうか。しかし、ウェスレーは、そんな平和の中で、魂が失われていくことに耐えられなかったに違いない。

「諸君は霊魂を救うことのほか、是非為さねばならぬことは何一つとしてないのである。それ故、此の働のために凡てを費し、且つ費されるものとなりなさい」

ただ一つのことを、ウェスレーは追求していった。それは、きっと彼のうちで、燃えるものがあったからに違いない。

「凡ての人に諸君が心中耐え難く思っている所の事を告げなさい、さもなければ、それはやがて諸君の心の中で激痛となるに至るでしょう。諸君の胸中の火を急いで投げ出してしまいなさい」

ウェスレーにとって、語るということは、きっと、この火を投げ出すということを意味したのであろう。そうしなければ、その火は彼を焼き尽くしてしまうことを知っていたからである。その火は、自分の罪を、そして人々の罪を焼き滅ぼすために投じられたのである。

福音というものは確かに救う力を持っているが、救いは自分ひとりのためのものではなく、伝播していく。人々は、それを待ち望んでいるのだから。

こうして、ウェスレーらによる運動は広がっていった。

「ああ、神を讃美する声を疾風の如くに地の端々までも行かしめよ」(ジョン・フレッチャー)

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コメント

この本は「ジョン・ウエスレイ」(森渓川 翻訳・発行)だったと思う。

投稿: | 2007年6月18日 (月) 20時50分

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