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2007年6月27日 (水)

生活法

「人は一度或る善き生活法を採用したならば、終始其処に踏みとどまり、その中へ一切の善き生活法を包摂し、己の生活法は神から受け取ったものであることを専ら注意し、今日はこれ明日はあれと転々せず、「自分の生活法では何かが等閑にされているのではないかしら」などという不安は断乎として払拭しなければならない」
(『神の慰めの書』エックハルト著)

生活法が悪いと生活習慣病になる。そんな人が現代では多い。警告が発せられている。

しかし、生活習慣病そのものを治そうとしても、うまくいかないのである。なぜか。原因はもっと深いところにあるからである。それは魂の問題である。体の異常(病気)は魂の危機を知らせる信号である。魂の問題を解決した時に、知らず知らずのうちに生活習慣病も治っていくと思う。もちろん、病気の意味が、これで尽くされているとは思わないのであるけれど。

それにしても、体の健康だけでなくて、魂の健康について、もっと関心を持ってもいいと思う。

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コメント

こんな言葉があります。

「結局は、人間を、よりよくしなければならぬのであって、そうすれば、境遇の方は、おのずから改善されるのです」(『愛と希望』カール・ヒルティ著)

境遇を体と読み替えれば、人間は魂になるでしょう。境遇の改善は人間がよくなれば、それについてくるのだということです。魂が健康になれば、体も健康になる、ということと同じと思います。

しかし、魂の核心の感覚がどうなっているのか、よく分からない人たちがいます。そういう人は福音をはじいてしまうのでしょう。自覚的には病人ではないのですから、治療を提案しても無意味ということになるのでしょう。

しかし、自覚している人たちが突き進んでいけばいいのだと思います。

「彼らの偉大な成長は、正邪のせまい信条をつき破り、それは善への限りない渇望の前に色あせる、と同時に彼らが裡に平和はいやましに高まり行く」(『愛と希望』カール・ヒルティ著)

「正邪のせまい信条」というものはあります。信条が原理主義的に受け取られると、その中で身動きがとれなくなるかも知れません。ビリー・グラハムの大衆伝道にも、協力の範囲に関して、批判がありました。

しかし、やはり大きなビジョンに向かって進むべきなのでしょう。一人が、試みるのであれば、それは波及していき、気づいたら、体もまた境遇も改善されているかも知れません。

投稿: | 2007年6月27日 (水) 17時34分

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