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2007年6月 8日 (金)

時代は変わった

かつて、故松村克己氏(元関西学院大教授)が中世思想を専攻したいという希望を語った時、恩師の故波多野精一氏から、あれはカトリックの分野なので、プロテスタントの信仰を持つ人にとっては難しい、と制止されたという。恩師の気持ち、分からないでもない。

それから長い年月が過ぎて、世紀末、カトリックとルター派の中で、信仰義認に関して合意ができた。これは、言ってみれば最初の一歩かも知れない。

中世にトマス・アクィナスという人物がいた。カトリックの中では重んじられている聖人である。そのトマスに、プロテスタントの印具徹氏が挑戦して、その思想を紹介している。トマスの信仰思想にプロテスタントの信仰と対話できる面を発見している。

「恩寵は自然を破壊せず、完成する」というトマスの言葉は有名である。

カトリック側では、自然と超自然との連続面を言おうとするかも知れない。しかし、プロテスタント側では、断絶面を強調してきた。そして、トマスの言葉は、実は両方を表現しているのである。巧みな仕方で。

あの言葉の背後に、「自然は絶対他力的恩寵なしには完成しない」という言葉が隠されているのを知れば、プロテスタントも同意するのではないだろうか。神の像は変わらないが、神の似姿は失われ、また無償で与えられる。

堕罪と救いに関して、トマスはプロテスタントと対立しているよりは一致しているのである。神人協力説にしても、救いの一点に関して、それが語られているのではない。

かつて、中世思想専攻を表明したプロテスタント学徒に対して、それを制止した恩師の思いは、今、もしおられたら、同じ思いであろうか。いや、トマス研究を勧めるかも知れないと思う。なぜなら、トマスはプロテスタント信仰の根本と一致しているからである。そして、この一致点を見い出すことは、さして困難ではない。こうして、カトリック者が、トマスを引用する時も、ともすれば偏見をもって、それを聞いてきたであろうプロテスタント側に、前理解の中に、逆に共感があれば、教会の相互理解は進むであろう。今は、そんな時代ではないかと思う。

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