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2007年6月29日 (金)

近代の超克

デカルトが見い出したという近代哲学の原点(「我思う、故に我在り」)は、既にアウグスチヌスによって発見されていた。彼は、『幸福な生活』次のように言う。

「「私が一切を疑っても、私が疑っているという事実は疑うことができない、それ故少くともこれを一つの真理と認めねばならぬ」「お前は私の云う事を認めず、それが真実であるかどうかと疑っても、お前の疑いを疑っていないことに注意せよ、そしてお前の疑いがお前にとって確実であるならば、その確実性の根拠を探究せよ。即ち疑うものとしての自己を認識する人は一つの真理を而も確実性を以って認識する。それ故真理を疑うものは疑うことの出来ない一つの真理を自己の中に利用するのである」(「真なる宗教について」)」

アウグスチヌスはデカルトと同じことを言っているのではないだろうか。

しかし、少し違うとすれば、「その確実性の根拠を探究せよ」と促しているところであろうか。その先に、真理という言葉が出てくる。アウグスチヌスにとって、この真理は神と同義であろうか。そうかも知れない。しかし、それは自然神学の神であろう。神探究のきっかけを与えたいと、彼は考えたのであろうか。

アウグスチヌスは中世哲学の中に生きている。この後半の示唆を、デカルトは無視している。そこから近世・近代哲学が出てきたといえるかも知れない。

近代の超克は、このデカルトの限界に立って、アウグスチヌスの示唆を受け止めるところから始まるのである。

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