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2007年6月29日 (金)

認識の方向

現象学派の哲学者、マックス・シェーラーの著者に『人間における永遠なるもの』がある。

その中で、彼は言う。

「次ぎのアウグスチヌスの説は、原理においては今もなお正しい--神を精神として認識する宗教的認識は、それに先き立つ現実存在の定立に依存せず、また非精神的世界の性状の認識にも依存しない。だから精神としての神を、われわれは「世界の光において」認識せず、逆に世界を「神の光において」認識するのである、と」

「現実存在の定立」や、「非精神的世界の性状の認識」に依存しているのが自然神学なのだろう。自然神学には、限界があり、啓示神学へのつながるには、断絶、超越、飛躍がなければならない。その「断絶、超越、飛躍」を強調しているのだろう。

これは、トマス・アクィナスにおいても、言われているのである。しかし、アウグスチヌスよりは、連続的な捉え方がされているかも知れない。そんな人もいるらしい。しかし、それは誤解であると思う。

創造活動は、このアウグスチヌス的原理にたって、現実存在の世界に新たに何ものかを投入することである。しかし、その時、時空世界の物になれば、「世界の光において」認識される「危険性」は常にある。こうして、創造活動の「悲劇」が始まる。しかし、それでも、創造活動によって、時空世界に「何ものか」を投入しないのであれば、世界の聖化の可能性は見つからない。可能性を用意するのは、先に知った人の義務ではないだろうか。

シェーラーは言う。

「言語と理性との所有によって始めて人間は人間となる」

「人間は人間となる」という。自然的な人間、人間の自然的成長のことを指しているのだろう。

また、言う。

「神は存在すると言う限り、すべての現存在の中に存在する。一切の現存在は神の存在を分有し、この分有によってはじめて一個の世界となるのである。神はその本質及び存在そのもの点から言って、万物の中に存在する」

このままでは、汎神論ではないのだろうか。創造主と被造物との関係は、その言葉の意味からして、関係はあると言える。しかし、関係があるということを、被造物の中に神が存在するとまで言っていいのだろうか。

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