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2007年6月25日 (月)

思惟の対象

人間の尊厳とは何であろうか。

パスカルは「人間は考える葦」といった。またデカルトは「我思う。故に我あり」といった。

「考える」とか思惟というものが、そこで語られている。

アウグスチヌスは「神が人間を神の像と似姿にしたがって創ったというのは、人間の思惟のことである。神の像であるのは、人間の思惟にほかならない」(アウグスチヌス「信仰と信条論」1・2、ジルソン「中世哲学の精神」下、19頁)ともいっている。

人間の他の動物と違うところは、思惟能力である。

であれば、思惟は人間の本質ともいえる。

ということは思惟を失った人間は人間の本質を失っているということかも知れない。脳死が人の死という論拠は、ここにあるのだろうか。

では、思惟とは何であろうか。

思惟には対象が必要である。対象は外界のことであり、感覚で捉えられるものだ。ここに科学的思惟の前提がある。

しかし、思惟の対象は外界にとどまらない。われわれの心の中で日々刻々行われている変化もまた対象となりうるものだ。その因果関係を理解することは難しい。あるいは理解できないのかも知れない。

しかし、この消息は、いろいろな人によって既に多く語られている。それらを頼りに、対話を進めていくことで、あるいは、遅々としてではあっても、人間の心の内側の理解が進むかも知れない。

そのような自己探求の姿勢が必要である。宗教と、その問いに応えるものであり、逆に宗教とその信徒に、そのような問いを促すものでなくてはならないのではないだろうか。

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