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2007年6月 3日 (日)

弁証法神学

「弁証法神学者が、凡べての自由主義的合理主義的体系に対して浴びせかける非難は同じであって、是等の体系は弁証法神学者の言葉をかりれば連続性体系である。而してこの連続性という言葉の中に弁証法神学者の19世紀に対する批判が総括されている」(『近代思想と基督教』ハインリヒ・デュモリン著、252頁)

おおざっぱに言えば、著者の言うようなのかも知れない。しかし、ブルンナーとバルトの論争もあったし、単純ではないとも思う。中でも、バルトが弁証法神学者の典型なのかも知れないが、あの論争では、ブルンナーの言い分にも共鳴できる点があったと思う。

著者は既に故人だが、カトリックの神父で、この本は弁証法神学批判の立場である。今から思えば、トマス的知性が欲しい。論争相手が、相手の欠点を指摘するのはいいけれど、相手の力点を評価する度量も欲しい。

人間の自然的能力は神の何かをつかむことができる(その部分での自然神学を是認する)。しかし、全部はつかめない(啓示の必要を認める)。理性は神の存在を知ることができる。しかし、啓示を自力で知ることはできない。

もっとも、神の存在を知るといっても、それは自然科学的な知り方ではない。そうであれば、神を否定する人はいなくなるだろう。事実が、そうではないといっている。

神の存在の証明という「証明」という言葉に躓いた覚えがある。しかし、それで救いの知識が分かったわけではない。救いの知識については、人間は理性では分からないのである。啓示が必要である。トマスは、そんなことを言っていた。

だから、トマスは対立的に互いを見ている両者を、対立を超えて見ることができるのである。

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