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2007年6月29日 (金)

カントへの疑義

ドイツの哲学者、カントは三批判書以外にも、いろいろな書物を出している。それらを読むと、やはり、啓蒙の立場、理性の立場に立っているのが、よく分かる。そして、進化論的な展望が、その中で、信仰的真理と、どのように関係しているのか、課題を感じてしまう。彼の育った環境はプロテスタント敬虔派の影響があったらしく、キリスト教との関係も見えるが、それは、やはり彼方のものと見ていたように思える。

例えば、『人類の歴史の憶測的起源』という本がある。その中で、こう言っている。

「当初この新来の人間夫婦をもっぱら指導せねばならなかったのは、やはり本能--即ちあらゆる動物が聴従しているこの神の声であった」

「とはいえ、こうしてひとたび自由を味わってしまった状態から、(本能に支配される)隷従の状態に帰ることは今となってはもう出来ない相談であった」

「こうして人間は、一切の理性的存在者と--その地位の高下は問うところでない--同等のものになった。つまり彼は、自己そのものが目的であり、何人からもかかるものとして尊重せられまた何人によっても他の目的の為の手段として使用せられないという要求に関して、あらゆる理性的存在者と同等になったのである」

「人間より高い存在者は、資質などの点では実に比較を絶して人間に勝っているかも知れないが。しかしかかる類のいかなる存在者にしろ、それだからといって人間を勝手に(処理)処置する権利をもつものではない」

「人間が、理性により人類の最初の居所として指示されたところの楽園から出ていったということは、単なる動物的被造物としての未開状態を離脱して人間性へ、本能のあんよ車を棄てて理性の指導へ、約言すれば自然の後見を脱して自由の状態へ移行したことにほかならない--これが人類の最初の歴史に関する如上の解釈の要旨である」

全体的には、進化論的歴史観の表明であろうか。しかし、その中に、人類の悲劇の原因である原罪が織り込まれていない。進化論はもっともらしく思えるし、科学的証拠が出てくるので、反論しにくいと思う。その限りでは、進化論でいいと思う。しかし、楽園追放は、そこでは肯定されるのである。信仰的には否定しなければいけないのに、そのギャップが埋まらないのではないだろうか。

楽園では、本能が神の声であったという。ということは、楽園では、人間は理性的動物ではなかったということになる。

楽園を追放されて、人間は理性を持つようになった、そう読めるのではないだろうか。そして、そこで楽園追放を讃美しているのだとすれば、原罪の贖いといった発想はなくなるのであろう。ようするに、キリスト教思想の根幹がないのである。これは問題ではないのだろうか。特に、聖書に基づいて語っているのだから。

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