« ミュラーの信仰 | トップページ | 矛盾 »

2007年6月 8日 (金)

パン五つと魚二匹

聖書には、パン五つと魚二匹で五千人が満腹したという記事があります(マタイ14・13-21)。これはマタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書にもあります。大切な記事なのでしょう。

しかし、これを、その通りに解釈しなければならないのでしょうか。それは物理的に可能なことでしょうか。もちろん、その通りに解釈する人もいると思いますが、おそらく、どうしてそれが可能であるのか説明できないと思います。

しかし、そこでは何が言われているのかを考えることも大切と思います。そのような詮索は無用という姿勢もあるいはあるのかも知れませんが。もちろん、文字通りの解釈と、その意味とを共に伝えることもあると思いますし、説教では、そうなるのかも知れません。しかし、今、文字通りの解釈、すなわち奇跡としか言えないことを、ただ信じることが求められているのでしょうか。

大切なことは、その意味、すなわち解釈なのではないでしょうか。その解釈の探求をしてみようとする時、アウグスチヌスは興味深いことを語っています。

「言語には一大脅威がある。即ち、食物を供するときには、食物は食うものの数に従って減少するが、演説するときには、その部分は分割されず、一人でも全体を聞き、二人でも亦全体を聞く。総ての人を充たし、各人皆その全体を得るのである。汝の耳が聞こうとしても、汝の隣人の耳はそれを奪うわない。さて、人間の言語についてもこのようであるなら、全能の言に至っては、如何なる力を有することであろう。しかし知性は言語とも異っている。知性は私の内部に止まって、私の内部を去ることなしに、(言語によって)汝にまで移行する。神の御許にある言についても同様に考えなければならない」(『省察と箴言』アウグスチヌス)

このアウグスチヌスの言葉と、あの「パンと魚の奇跡」とを重ねてみると、聖書の解釈に一つのヒントが、そこにありそうです。なぜ、パン五つと魚二匹で五千人に満腹感を与えることが出来たかの回答です。

聖書の記事が、自然科学の法則を破る形で、現実に起きたのだ、と言わなくても、その解釈の真実性を主張することは出来ます。そして、その解釈の真実性を失う時、聖書は謎と化してしまうと思います。

|

« ミュラーの信仰 | トップページ | 矛盾 »

コメント

「分ち与えても減少しないものは、それを所有しながら分ち与えない限り、正しく所有するとはいわれない。それを分ち与えるときには、分ち与えることによって増す(基督の)5つのパンの説話が繰り返される。即ち飢えたものは空腹を充たされ、分ち与えるものは貧しくなるどころか、却って分ち与えることによって驚異すべき富の増加を楽しむのである」
(『省察と箴言』アウグスチヌス)

投稿: | 2007年6月11日 (月) 10時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ミュラーの信仰 | トップページ | 矛盾 »