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2007年6月 5日 (火)

カリタス

「「カリタス」は「エロース」でもなくまた「アガペー」でもないが、またそのどちらでもあるという。両者の複雑な統合による新しい創造物である。ニーグレン博士の言葉をかりるならば、「アウグスチヌスは、二つの別な宗教の世界の前線に生きる。ギリシャのエロースの世界と、古代キリスト教のアガペーの世界の前線である。そして、彼の重大性は、二つの世界が、実際に彼の人格の中で会合して一つの霊的統合を形成している事実の中にあるのである。」だから、アウグスチヌスは「エロース」と「アガペー」の統合者と言うことができよう」(『アガペーとエロース』ニーグレン著)

あの有名な『アガペーとエロース』を以前、読んだことがある。もちろん日本語で。

その中に「カリタス」という言葉があった。カトリックに「カリタス・ジャパン」という団体があるが、プロテスタントでは聞かない言葉である。気になったのは、カリタスはアガペーではないという引用個所の指摘であった。その個所は、著者ではなく、訳者の言葉かも知れない。

この書物は、アガペーとエロースの分離を目的としていると思った。アガペーはエロースではない、カリタスでもない、純粋なアガペーを浮き彫りにしよう、と、そんな意図を感じた。

その背景には、中世は、カリタスの時代で、それはアガペーとエロースの「複雑な統合による新しい創造物」の時代であったという認識があったのだろう。

しかし、宗教改革は、その分離をもたらした。カリタスから純粋なアガペーが抽出された。純粋なキリスト教のユダヤ的伝統に立ち返ったのだ。著者に、そんな意図を感じていた。

最近の放送大学で「愛」をテーマにした講義があった。そこで、この書物も紹介された。その中では、本来の、高貴なるエロースの姿を評価する言葉が語られた。アガペーとエロース、両方とも必要、そしてその出会いが大切と、私は聞いた。これは中世の思想ではないかと思った。ここにも中世思想を評価する証人はいるのだと思った。

もちろん、私は中世の統合が破れて近世・近代が生まれ、そこでの歴史を無視する人間ではない。しかし、エロースのみの近代主義の限界に至って、現代人には新しい展望が必要ではないかと思う。

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コメント

「A・ニグレンは、アウグスティヌスにおいてギリシア的愛エロスとキリスト教的愛アガペーが混同されていることを批判する。しかし、両者の総合こそ彼の貢献である」(講談社学術文庫『アウグスティヌス』宮谷宣史著、45頁)

著者はカリタスを積極的に評価している、という意味なのだろうか。もちろん、カリタスをニグレンの意味に受け取るべきかという問いは、残るかも知れない。

アウグスティヌスの恩恵論の「絶対他力」は、アガペーについて語っているのではないだろうか。ニグレンの主張では、カリタスはセミ・ペラギウス主義的内容のものと思われるが、アウグスティヌスは、その立場を否定しているということを考えた時、やはり、アガペーを主張していたのではないだろうか。

しかし、「求める愛」をエロスとしたら、それは彼にあっては、問うことを通して、なくならず、強く意識されていた。しかし、だからと言って、エロスの自律的・閉鎖的性格に安住してはいなかったのだ。

アウグスティヌスは問い続けた。そして、問うことにエロスの性格を見れば、エロス的であり続けた。しかし、それは救いの条件ではなかった。といっても、条件のようにも思えるということを否定するつもりはない。

「求めよ、さらば与えられん」の中で、「求めない者に、どうして与えられるのか」と斬りかえされた時、「求める」ことが「与えられる」ことの条件のようにも見える、という意味である。

投稿: | 2007年6月12日 (火) 15時20分

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