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2007年6月 5日 (火)

弁証法神学批判

「理性的な神認識を説くカトリックの教理は、弁証法神学者の唱える神の極端な超越性の説と全く相反するものである。更に又人間を本能的に悪化されたものとする証法神学の見解も、カトリック的立場からは根本的な誤謬として斥けられねばならない。人間は罪深きものであるという厳粛な事実に対しては、カトリックの教えと雖も決して之を寛大に見るものではない。人間はその本性に従へば悉く悪化され、又罪に汚染しているものでもない。人間は善意の神に創られているものであって、本来その本質は善である。たとえ人祖の堕落によって人間の心に悪への傾向が植付けられたと言っても、人間の本性はあくまでも善である。かの人祖の堕落は、神の掟を蹂躙して傲慢と不従順の罪を犯した人間のきままな行為に起因している。人祖の堕落以来人間性に悪への傾向が芽生えたとしても、根本的な善の性質は決して消えたのではない」
(『近代思想と基督教』ハインリヒ・デュモリン著、264-265頁)

著者はカトリックの神学者というよりも哲学者であった。余り多くの著書はないが、いくらかはあった。『近代思想と基督教』は一般の書店にはなかったろうし、従って、余り、人の目に触れることはなかったかも知れない。しかし、弁証法神学に対して、カトリックの側で、どんな印象が持たれていたか、そのための、ある意味では貴重な資料かも知れない。

おそらく、弁証法神学に熱中している人たちからは、このような批判に対して、「ナイン!」(違う!)といった応答があるのではないだろうか。

魂はいかにして救われるのか、その時、人の側には何か頼れるものがあるのか、そういった問題意識に弁証法神学の関心は特化していたのである。だから、その時に、いや、人間の側にも「能力」があるといったニュアンスの応答は、「自然神学!」として拒否されてのではないだろうか。

弁証法神学の、いやバルトの神学は、親鸞同様の絶対他力信仰である。しかし、トマス神学も、その意味では絶対他力であり、トマスを重視するカトリック信仰も、その意味では絶対他力なのである。

堕罪後の人間は、それでも善である。それが著者の言いたいことのようである。しかし、その善は、人間に安心を与えてくれる善ではない。「神の像」の善が、そこで語られていても、真の安心を得るために、「神の似姿」の善に目を向けるべきではないのか。それが弁証法神学者たちの言いたいことなのではないだろうか。

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