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2007年6月 4日 (月)

溶鉱炉

無の一字 日本文化の 溶鉱炉
 西洋文化 こなごなになる

『文藝春秋SPECIAL』2007季刊夏号に、宗教学者の山折哲雄氏が寄稿している「『善』と『悪』」に考えさせられました。日本文化における「無」の意味について書いておられます。

西田哲学の「絶対無」、無我・無心の無、無分別の無、無一物無尽蔵の無、東洋的無の無、無教会の無、小林秀雄の「無私の精神」の無、と、無の「分列行進」、無マンダラのようだと言っています。

そういえば、小津安二郎監督の墓にあるのは「無」の一字です。

山折氏は、そこで、「無宗教」と「無の宗教」の比較に誘われます。「無宗教」は軽い、否定的な言葉、しかし、「無の宗教」は、もっと重い、何かの主張を持った言葉と思います。

最後に、こう言われます。

「わが国における哲学的頭脳はたえずこの日本的風土から立ちのぼる宗教的感覚、すなわちの無宗教的感覚に脅かされつづけてきた。脅かされ、足元をくずされ、最後にそう湿った土壌のなかに埋没する不安から脱出することができなかったような気がするのである。
 無の感覚、である。無の感覚の恐るべき浸透力である」

この無の感覚をどう捉えるか、その回答なくして、日本の宗教に明日はないのではないでしょうか。その点、無教会は、その問題提起において、今でも多くの日本人の関心を集めているのだと思います。

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