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2007年6月15日 (金)

神学の方法

「しかし神学は預言者職でも使徒職でもない。神学は神の言葉をただ間接的に、つまり聖書証言という鏡と共鳴においてのみ知りうるのであるから、神学の神の言葉に対する関係は、聖書の証人たちの神の言葉に対する関係になぞらえるわけにはいかないのである。したがって神学の場所は、あの最初の証人たちと並ぶ同じ高さとか、類似の高さにあるわけではない。神学が人間として神の言葉に応答するということは、もちろん常に神の言葉を問うことにおいても成り立つであろう。だが神学はこの応答ということを、神の言葉への何らかの直接性において果たそうと欲することは不可能でもあり、また許されてもいないのである。神学は、その場に居あわせることが大切だったあの場所に、居あわせてはいなかったのである」
(『福音主義神学入門』カール・バルト著作集10、新教出版社、230頁)

ここでの「神の言葉」は、むしろ「神の言」と言い換えた方がいいのかも知れない。バルトは、「神の言葉」で聖書のことを言っているのではなくて、もっと、その奥にある根源的な出来事を指しているのだと思う。

しかし、別のところで、バルトは、こうも言っている。

「聖霊の交わりにおける人間の実存から教会教義学を形成する可能性がある」(『バルトとの対話』ゴッドシー著)

と言うことは、彼の「教会教義学」は、「聖霊の交わりにおける人間の実存から」から書かれたものではないという意味なのかも知れない。そして、それは預言者職の現代的展開になるのではないだろうか。説教が力を帯びるとは、預言者職を内包している時である。

この言葉を見ていて、ベルジャーエフは、常にこの前提の中で思索していたのだと思った。もっとも、彼は教義学者ではなかったけれど。だから、体系を作ることはしないであろうが。

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