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2007年6月13日 (水)

カリタスについて

カリタスで総合されたアガペーとエロスとの分離を意図したことにルターの功績を考えることもできる。それがニーグレンの『アガペーとエロス』の主張であるのかも知れない。

『ルターからキェルケゴールまで』(J・ペリカン著、聖文舎)にも、この主張にそったような評価が現れている。

「聖アウグスティヌスの<愛>(カリタス)がエロースとアガペーのあの総合を象徴するように、中世思想家の<大全>(Summae)の多くは、中世においては著名な神学者がみな同時に何ほどか哲学者であったし、またその逆もいえるという事実を証ししている。ジルソンはわれわれに、われわれがこの事実をもよく理解すべきことを教えてくれた。しかしジルソンが指摘していないことは--そしてそれはローマ・カトリック教徒としての彼が指摘するとは期待できないことなのであるが--中世における信仰と理性の壮麗な結合が信仰の犠牲においてなされたということ、そしてキリストの十字架の中に示された神的アガペーの力があまりにもしばしば中世の教会のカリタス的総合においては弱められてしまったということである」(3-4頁)

中世的総合への批判である。その批判の中から生まれた近世・近代は、どうなのだろうか。ポストモダンと言われる現代である。

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コメント

中世的総合のもたらしたものは何か。

「ルターが真正面からぶつかっていったカトリック教会は現代人たるわれわれが考え易いいわゆる「教会」でなく、いわゆる「教会」であると同時に、強大な封建的領主であり政治・経済上の一大勢力であった」
『宗教改革と近代社会』(大塚久雄著)

一修道士が神学的問題提起をしたのに、なぜ、それだけで社会全体が震撼したのか、現代では想像できないかも知れません。

投稿: | 2007年6月14日 (木) 11時11分

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