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2007年7月31日 (火)

ウェスレーの教え

今でも、ウェスレーに学ぶ点は少なくとも二つある。

それは、キリスト教信仰は聖霊の働きを受け止めることであるということが一点。信仰を得て、新生したあとの生活指導が大切なのだ、ということがもう一点。

この二点は、今でも、ウェスレーがわれわれに訴えていることである、と思う。

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2007年7月30日 (月)

エクスタシス

「エクスタシスに於いて吾は一者に没入するのであるが、吾は本来の吾に帰り、その極一者と合一するのである。故にエクスタシスに於いては一面吾を脱却して一者に没入するのであるけれども、他面又その時吾は本当の吾になっているのである」(『プロティノス』鹿野治助著)

エクスタシスとはエクスタシーのギリシャ語読み。恍惚という意味で使われる。しかし、実は、これは重要な言葉である。

「人間が神と合一した忘我の神秘的状態。フィロン・新プラトン主義・中世神秘主義思想家の重要な概念」(広辞苑)といわれる。

要するに、新生・聖化における聖霊体験と翻訳して考えればよい。新生はカイロスであり、聖化はカイロスではない。しかし、聖化におけるカイロスが「キリスト者の完全」と言ってもいいのかも知れない。

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文化と文明

「文化期の人間は内へ向う精力を持っているが、文明化された人間は外への精力を持つ」(『神秘主義・象徴主義』)

高度に文明化された社会で、文化の力の衰退を感じている。「内へ向かう精力」の成果に関心を持たなくなっている現代人が多い。

文明の成果は、安っぽい人間の欲望に奉仕するのに甘んじているようである。価値ある文明の成果も、自ら仕えるものとの関係で、その値打ちを下げているようでもある。

文化は実存哲学の道を通って、人間の真相を明らかにする。文明は、その真理に奉仕すべきである。そう思う。

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2007年7月29日 (日)

日本の未来

四谷のみ 何か足りない 御茶ノ水
 二つの間 日本の未来

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ザビエルの念

江戸城の 陰に拠点を 定めたり
 ザビエルの念 今に生かさん

騒動の 歴史を負いて ひっそりと
 されど権威を めざす無意識

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2007年7月28日 (土)

罪の結果

「ローマ・カトリックは、人間の罪が人間本性、人間理性を腐敗させたことを認めず、ただ少し傷付けただけであると考えているから、非キリスト者の理性もある程度の正しい神認識を持つという自然神学と或る程度の救いの前提的善き業の実行容認するセミ・ペラギウス主義になる。…罪による神の像の喪失の議論は起こらず、われわれの言葉で言えば、認識的、倫理的な意味でも神の像の残存を承認していることになる」『思想の宗教的前提』(春名純人著、183-4頁)

カトリックの哲学者、エチエンヌ・ジルソンは、罪の結果、人間に起きる変化をこう語っている。

「原罪はどのような結果を人間性の善に生じたかということが問題になるとき、われわれはまずこの善とよばれるところのものを規定しなければならない。じっさい、この善とよばれるものは、三つの異なったものを意味している。第一にそれは、人間性そのもの、すなわちそれの構成的諸原理から生じて、理性をもつ生活体として定義されるところのものである。第二にそれは、人間が善に対して感じる、そして善なるものは一般にそれ自身の善を含有しているから、それなしには人間が生存することもできない自然的傾向性である。第三に、人間性の善とよばれるものは、人間が神から創造のさい与えられ、したがって恩寵としてうけた原本的な正義の賜物である。この最後の意味に解されるとき、人間性の善はその本性の一部分ではなく、それに付加されたもの、したがって原罪によってまったくなくされたのである。第二の意味に解されるとき、人間性の善は真実にその本性の一部分を形成し、したがってなくされることはなく、ただ減ぜられるのみである。すべての行為はある習性のきざしを生ずるものであって、最初の邪悪な行為はさらに邪悪な行為をなす性向を生みだし、かくして善に対する人間の自然的傾向性を弱める。しかしこの傾向性は、それにもかかわらずなお存続して、すべての善の獲得を可能ならしめるのである。最後に、本来の意味における人間性、すなわち人間の本質そのものはどうかといえば、「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」(primum
igtur bonum naturae, nec tollitur, nec diminuitur per peccatum.) のである。このことを否定することは、人間が人間でなくなりながら、しかもなお人間であることを認めるものにほかならないであろう。それゆえ、罪は人間性になにものも付加することもなく、また人間性からなにものも除去することもない--『人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない』(ea enim quae sunt naturalia homini, neque subtrahuntur neque dantur homini per
peccatum.) 人間の形而上学的規定は不変であって、たまたまそれにおこる諸偶有性には依存しないのである」(『中世哲学の精神 上』エチエンヌ・ジルソン著、167-168頁)

罪というものが全的堕落と言われる時、それは、ジルソンが三番目に取り上げているものである。これは原罪でなくなったと言っている。だから、全的堕落について指摘しているのではないだろうか。

付加というのは、「なくなる可能性」を指摘しているのだと思う。だから、「本性の一部分ではなく」と言っているのではないだろうか。

セミ・ペラギウス主義とは、この第三の義の回復に、人間の功績を考慮する考え方であろうが、そこは、新生段階と、聖化段階の混乱があるのではないだろうか。新生段階では、それは全くないが、聖化段階では「人の選択行為の功績の価値」と言われるようなものがあるような気がする。

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神の神学校

「彼は一生の間、神の神学校における学生であった」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

「神の神学校」は、どこにあるのだろうか。あなたが「神学生」である限り、「神の神学校」は、どこにでもある。入学はいつでも自由で、卒業する時はこないであろう。

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疑惑

「神の独り子は、われわれを未決定のままのこして行かなかった。彼はわれわれに行くべき道を示したのである。われわれはただ神のことばに相談し、そこに書かれていることをたずねればよい。そして、もしわれわれが単純にその決定にとどまるならば、疑惑などの残る可能性は全然ない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

信仰とは最終的には、聖霊の働きの受容なのだろう。それに至るまでは、理性でとらえようとすると、とらえきれないので、疑惑に発展するかも知れない。それは、「当然」のプロセスでありうる。

ペンテコステは教会の誕生日と言われるが、このようにして、神を知った者に、神への疑惑はない。

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人間の創造

『思想の宗教的前提--キリスト教哲学論集--』(春名純人著、聖恵授産所出版部)という本がある。

最初の部分に「理性と信仰」が取り上げられている。その中で、「退けるべき三つの典型的立場」の最初に、「スコラ的総合の立場[自然と恩恵の二元論]」が紹介されている。

そこに、こんな個所がある。

「もともと人間にあったこの混乱と不調和を抑える目的で創造の後で付加的に加えられた超自然的付加的賜物(donum superadditum)をアダムは罪を犯すことによって喪失したから、この原義の喪失はアダム以後の人間に再び混乱とは調和をもたらしている。この混乱と不調和を修正・補修するものがキリストの恩恵である。創造の時の人間に混乱と不調和があったという考えは、創造がはなはだ良かったとする聖書の言明に対する矛盾があり、また、堕罪後も人間理性には原理的には罪の結果が及んでいないという考えは、罪の影響が人間の全本性に及ぶという聖書の言明に対する矛盾がある。このように、この考えにおいては、罪による原義の喪失を超自然的付加的恩恵のみの喪失に限定し、理性に対する罪の影響は原理的には承認されていないと言える」(2頁)

さて、超自然的付加的賜物は創造の後で加えられたのであろうか。超自然的付加的賜物が加えられた段階で、人間の創造が語られているのではないだろうか。この超自然的付加的賜物の喪失を「原義の喪失」というのは、そうだと思う。

「創造の時の人間に混乱と不調和があったという考え」と言われるが、それは創造が、原義の付加の以前と考えているからである。しかし、原義の付加の後で初めて人間の創造を考えるのであれば、聖書の言明に対する矛盾はない。

また、「堕罪後も人間理性には原理的には罪の結果が及んでいないという考え」と言われるが、堕罪後も人はあくまで人である、という意味にとれば問題はないと思う。しかし、堕罪は原義の喪失であり、原義の回復が人間の力では不可能という主張とあわせ考えれば、人は理性能力によって救いを得ることができるとは言っていないのではないだろうか。

著者は、この教えは全的堕落の教理が否定されているというが、全的堕落の教えは、原義の喪失を指していると考えれば、スコラ的総合にも全的堕落は教えられている、と思う。

「理性に対する罪の影響は原理的には承認されていない」と言われるが、これは、罪を犯したといっても、人間は理性的動物をやめて、他の定義による存在になるのではない、という意味であれば、現実に根ざしている言明と言えるのではないであろうか。

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破門

「人々から破門されるのを怖れて神の御言を説いたり聴いたりするのをやめる者は既に破門されている者です」
(『恩寵溢る』ジョン・バンヤン著)

「人々」とあるけれども、破門する主体は「教会」ではないのだろうか。あるいは、「教会」の意味なのだろうか。中世のワルドーを思い出す。

現代では、このような規制は全く意味をなさない。だから、歴史的中世は、二度と戻らないのである。

しかし、それでも、教会員が、教会の信仰告白と対立する教義でインターネットで流したならば、どうだろうか。教会は破門するのだろうか。何かのアクションがあるかも知れない。

それとも、その教会員は、自分の良心によって破門されるのかも知れない。

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2007年7月27日 (金)

哲学者への期待

「カントは国王が哲学的思索をなしたり、哲学者が国王になることを期待しない。そればかりでなく、このことが可能であるとしても、それは願わしいことではないだろう。《というのは、暴力の所有は、理性の自由な判断を堕落させずにはおかないからである。》さらに彼はつづける。《けれども、国王たち、あるいは王者たる国民(平等の原則にしたがって、自己自身を統治するという意味で)が、哲学者という階級を消失させたり、沈黙させたりせずに、哲学者をして公開的に語らせることは、国王にとっても国民にとっても、自分たちの仕事の啓発の為に、欠くことのできないものである。》」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

わが国では、哲学者たちの自由な言論活動が活発であり、それはよいことと思う。この自由な言論活動を犠牲にして、哲学者が政治家になることは問題を残すかも知れない。しかし、権力の多様化が進んでいる今日、政治の世界でも、自由な言論活動が保証されているように思える。だから、別の視点もあるかも知れない。

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「私たちの生涯におけるただ一つの目的は、いつでも、神のみこころに従い、私たちのためにあらかじめ定められた道を歩む、ということでなければならない」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

「神のみこころに従い」というのは、日々の心構えということで、抽象的ではあるが理解できることである。しかし、「私たちのためにあらかじめ定められた道」というのは何であろうか。また、どうしたら分かるのだろうか。信仰の告白を続ける中で、自己認識が深まり、それを通して、分かるというものであろうか。

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謙遜

「主がおはいりになる心ほど低いものはない。主が喜んで宿をとられる家庭ほど貧しい者はない」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

この「貧しい」は、換言すれば「謙遜」という意味と思われる。そして、「貧しいものは幸い」の「貧しい」の意味も、「謙遜」でよいのではないかと思う。

み言葉は、当座は意味が分からない場合があっても、やがて、いろいろな使い方などを参照して、分かってくる場合がある。それでいいのではないかと思う。

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神の性質

「神は御自身の性質によって拘束されている」(『神と人間』メイチェン著)

肯定神学的に言えば、そうなるけれど、その内容は否定神学を考慮すれば、人には謎という面も現れてくる。その時、神の性質も人の理解を超えたものになる。

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見える教会

「今はこのように変動きわまりない時代である。このように移り変りが激しく、多くのことが信頼できない時に、われわれが信頼することのできるものがあるであろうか。残念ながら、われわれは地上にあるものは教会すら信頼することができない。地上に実在している見える教会は、誤りと罪に陥ることがしばしばで、われわれは信頼を求めて教会へ訴えることはできないのである」(『神と人間』(メイチェン著)

メイチェンが、ここでいう教会は、あるいは、米国長老教会を指しているのかも知れない。

20世紀初頭、米国の教会で、自由主義神学をめぐり、教義論争があり、自由主義神学の主流各教派と、福音派(根本主義など)に分かれて、プロテスタント諸教派が二分された。その時、メイチェンは米国長老教会を去り、新しい教会をつくったという。

しかし、見える教会全体に対する信頼がなくなれば、その時は、信仰もまたなくなるであろう。

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評判

「彼は信者たちの間での自分についての評判も気にしない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

評判とか、うわさというものは管理できないものである。そして、みんなによい評判を得るということは不可能である。だから、余り気にする必要はない。

しかし、キリスト者は知られていないようであるが、案外、知られているものである。だから、こうも言われる。

「私たちは、教会の外にいる人たちに向かって、注意深く歩もう」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

われわれの言動、われわれとしては何の問題も感じていない言動、それらが、われわれの思いもよらない人々の心に深く印象として残る場合がある。そのような人々の印象に、われわれはどれほどの責任があるのだろうか。

それらの責任を考え始めたら、われわれは身動きできなくなってしまうであろう。

最終的に裁く方がおられる。すべてが明らかになり、正しい裁きが行われる。それを待ち望むしかない。

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「学的に弁護」

「キリスト教は実用主義でなく、神秘主義でなく、学的に弁護されうる、又されねばならない真理の宗教であるというのはメイチェンの根本的信念であった」(『パウロ宗教の起源』メイチェン著)

実用主義、神秘主義という言葉で何を意味しているのだろうか。

私は定義によっては、神秘主義的キリスト教(聖霊の神学の妥当性を考えて)を支持したい気がする。

しかし、キリスト教の性格からして「学的に弁護」が可能なのだろうか。最終的な「神秘」を、理性の法廷に引き出して「学的に弁護」することは妥当性を持つのであろうか。

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2007年7月26日 (木)

沖縄の歌

沖縄の 歌に叙情が 溢れ出て
 渇いた心 いつか癒やされ

ラジオ深夜便で「沖縄の歌」の特集がありました。日本には沖縄が必要なんだ、と感じた次第。

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預言

「歴史は存在論的記憶により、能動的な想起における過去への参与によって、内的実存として認識される。そのためには私は過去を、私自身の過去として、私の精神の原歴史として認識しなければならない」(『ロシア共産主義の歴史と意味』ベルジャーエフ著)

カリスマ運動の中で、異言と預言が語られ、実際に、集会で、そのような現実に触れることもある。しかし、そこで語られる預言は、自分にどういう意味を持つのか、よく分からない場合もある。

ベルジャーエフの場合は、預言的発言があるけれど、それらは、どこかで深くうなずくことのできる要素を持っている。それは、歴史認識の実存的アプローチによるものなのだろう。それにより、過去を深く認識し、その中から未来に関して発言するのだ。それらは過去の認識に基づいているので、ご託宣的なものと言うより、いま・ここでの選択・決断に、より確実と思える方向性を与えてくれるのである。

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救い

「私は誰に向っても、信じて下さいなどと、ねだりたくはない。彼らが信じよいが、信じまいが、私は一向に構わない」(『恩寵溢る』ジョン・バンヤン著)

福音を聞いた人には、信じるか、信じないか、そのことを決めなければならない。それは、その人の自由。その自由を侵してはいけない。

「宗教に関しては、どんな強制も用いてはならない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)という。

しかし、信じることは、理性を超えることかも知れないが、理性に反することではない。そこで、信仰が吟味される。「著しく進んだ型の信仰は確かな知識から生れるものです」(『説教』ジョン・ウェスレー著)という。知識を犠牲にして信仰する必要はないのである。

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2007年7月25日 (水)

文士たち

龍之介 治も共に 自殺して
 聖書に触れた 痕跡残し

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巡礼

四国路に 巡礼絶えず 白を着て
 今わの際の 覚悟示して

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騒動

「人類の愚かさと狂気とは非常なものであって、無数の人々が、今もなお、地獄への道を突進している」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

こういうことを真面目に言う人がいたら、やはり、ひと騒動起きるのではないかと思う。その愚かさが狂気と思うことがある。

「容易に認められることだが、この世が狂気とみなす決定的な事柄は、すべての現世の事柄へのあの徹底的な蔑視であり、また、永遠の事柄の動揺しない追求である」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

だから、キリスト者は抵抗を受ける。抵抗する人たちは、それを正しいと思っている。

どんな抵抗が、この世で起きるのだろうか。

「悪魔は、私を誘惑し攻撃しても、思い通りにならないのを見ると、即ち、私の伝道をさまたげ、その目的を無効にしようとしたが、結局出来ないのを知ると、今度は手をかえて無智な人たちや悪意ある人たちの心をそそのかして、私に蔭口を浴びせたり、難癖をつけさせたりした。そのためには悪魔は智恵の限りをつくし、その手下どもは気の廻る限り工夫して、近郷近在で私をさんざんに非難させ、それによって私の伝道を思いにとどまらせようと企んだ。そのために、あちらこちらで私のことを、やれ魔術師団だの、やれ陰謀家だの、やれ野盗だの、なんだかんだと言いはじめた」(『恩寵溢る』ジョン・バンヤン著)

少しは抵抗があった方がいい。天国ではもう味わえないのだから。この世で、じっくり味わった方がいい。

苦難もまた、水の如く流れていく。平面を行く巡礼ではなく、上を目指す巡礼たちにあっては。

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「迷い道」

歌手の渡辺真知子さんの歌「迷い道」を深夜便で聞いた。
どこかで聞いたような気がした。久保田早紀さんの「異邦人」に似ていると思った。

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命令

命令は 他律の支配 神律は
 良心支配 対人の知恵

先生が生徒と接する時、「命令」を避けている、という話を、ラジオ深夜便で聞きました。大切なことと思いました。

命令ではなく、事実を伝える、そうすると、生徒は、こちらの思っていることをしてくれる。おそらく、生徒は良心機能を働かせたのだと思います。ちょっとした対人関係の知恵と思いました。

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2007年7月24日 (火)

梅雨明け

一夜明け 夏感じる日 梅雨も明け
 海の誘いは 遠い彼方に

7月24日、東京は梅雨明けらしいです。夏、昔はよく海に行きました。

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神への道

「さて、第一に、神の恵みを熱望する者はすべて、それを祈りの道によって、待ち望まなければならない。第二に、神の恵みを望む者はすべて、聖書を探求することによってそれを待ち望まなければならない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

まず祈り。祈りとは、心の祈りでいい。沈黙していてもいい。それでも神は聞かれる。

そして、聖書。聖書は学者のように読まない方がいい。学者は理性・合理を最終権威にしているが、信徒が読む時には、祈りで与えられた聖霊が道案内だから。聖霊に導かれて、その特別な感じ方の中で、自分への言葉として受け止めればいい。しかし、その印象を吟味、反省した方がいいと思う。

その過程で、未知なる世界が次第に分かってくるのだと思う。

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独立心

「信仰は私たちに独立心を与えるが、無関心を与えるようなことはしない」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

信仰の始まりである回心が起きたのは地獄の一丁目であった。それが独立心の理由である。そして、信仰は世に向かって表明されなければならない。それが世への関心の理由である。

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生きる意味

われわれが今なそうとしていること、
それに、どんな意味があるというのだ

われわれが死んでしまえば
それらは、われわれから離れてしまう

死によって、すべてがなくなるのであれば
われわれの努力は何のためであろうか

魂の触れ合いを感じた愛する人たちは
既に、この世にいない

臨終の時は、その人たちとの再会の時だと思う
死とは悲しい時ではなく、楽しい時なのだ

黒沢明監督の「夢」に、葬式の場面があった
老人が踊りつつ、祝っていた

生きるとは、この楽しみを目前に望みつつ
その準備にいそしむ日々なのだ

災害は、いつ来るか知れないが
死は、やがて必ず来る

災害のための準備をしながら
死の準備をしないのは、おかしなことだ

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巡礼

「彼はこの世のことにはあまり心を留めていなかった。なぜなら、彼はこの世では一介の旅人であり、風来坊であり、留まるべき都がないのを知っていたし、いと高き天上に永遠の手で作られた都を憧れ求めているのを自覚していたからである」(『恩寵溢る』ジョン・バンヤン著)

選挙が近い。しかし、その関心は地上の生のことである。

巡礼は旅を急がねばならない。しかし、多くの人々は、自分が巡礼であること、旅をしていること、旅のゴールがあることを、余り自覚していない。旅の終わりは死である。しかし、それは悲しむことではない。

「死は勝利であり、生は心待ちにしている幸福をもどかしくも遅れさせるものだと考えていた」(『恩寵溢る』ジョン・バンヤン著)

かつて、黒沢明監督の映画「夢」を見た。最後のシーンで、笠智衆さんが老人を演じ、踊っていた。ある人が死に、その祝いなのだという。死が、このように受け止められたことに、衝撃を受けた。

死は忌むべきことなのであろうか、それとも喜ぶべきことなのであろうか。少なくとも、巡礼にとっては、死は忌むべきことではない。

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2007年7月23日 (月)

罪の定義

「絶対に罪のない状態は、私たちが完全な知識を持っていないかぎり、到達することは不可能である。なぜなら、私たちの光が絶えず増し加わるにつれて、今までは平気で認めていた事がらの中に、悪を見いだし続けるようになるからである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

ウェスレーは、自分も含めて、人はこの世で完全な知識を持っているとは認めていない。だから、その意味では、マイヤーが言う「罪のない状態」をこの世で達成することは不可能であろう。しかし、彼は「キリスト者の完全」という。それは、罪の定義の問題があるからだろう。

新生者は成長しなくてはならぬ。「完全を目指せ」とはイエスの教えなのだから、間違ってはいない。その過程で、霊的感覚の中で、顕著に知られてくるものが「キリスト者の完全」なのであろうか。しかし、「完全」はゴールのように見えるが、そうではない。聖化は死ぬまで成長し続けるのだと思う。

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義認と聖潔

「使徒があくまで主張するのは、聖潔が義認の先に起こることはできないと言うことであって、聖潔が、義認の後に続く必要はない、ということではないのである」『説教』(ジョン・ウェスレー著)

聖潔のあとの義認は、自力救済の教えであろうが、それは違うと思う。

また、義認には受動的信仰が必要だけれど、聖潔もそうだと言われると、それも少し違うような気がする。

生まれるというのは自分の意志ではないが、生きるということには、自分の意志が問われている。生まれることにも信仰が必要であれば、そこには自分の意志が働いているではないかという問いもあろうが、その意志は自力の否定の承認を意味するのであれば、生まれる前後に、ある断絶を見ることができる。

生まれた世界は当初は不案内だけれど、生きていれば、ある程度、事情が分かってくる。事情が分かれば、意志が有効であろう。生まれることには断絶性、成長には連続性がある。その連続性の中では、意志は必要なのではないだろうか。その意志は、聖潔あるいはキリスト者の完全を求めなければならない。それが一番、安全な生き方なのである。

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愛と認識

愛するは 対象のうち 入り込み
 そこに幸あり 自己の変革

認識に 自己変革は ないけれど
 愛するものの 自己は変えられ

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自己実現

「われわれは、われわれの愛する人々の中で、われわれ自身になる」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

出会う人々の中の、ある人々に感じる何か、その問いを抱きつつ、感じる我とは何かを問う。こうして、我は形成されていく。

その形成のためには、おそらく、表現活動が必要である。

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信仰と行為

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙10・10)

「心に信じて」が信仰、「義とされ」が義認、これは内面のことだが、それは外面に出てくる。それが「口で告白」の行為、こうして、人は救われる。

信仰義認から行為は、自然と流れてくる。信仰義認があれば、行為は出てくる。行為が先ではない。洗礼も、そのような行為の一つかも知れない。しかし、信仰義認を求めての洗礼もあるかも知れない。認めない人もいるけれど。

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プロティノス

プロティノスについて余り関心を持ったことがなかった。しかし、アウグスチヌスへの影響を考えた時、少しは関心をもってもいいように思う。『プロティノス』(鹿野治助著)があり、そこには、こんな文章があった。

「プロティノスの哲学は宗教哲学である」

「一部分ずつ順に見ると云った様な運動は、時間に於いてのみ起り得るのである。叡智界では現在に於いて一切が現前しているのであるから、一切を一挙にして見る叡智的直観があるのみで、「ノエシス」とか「ノエイン」とかいうのはこの様な活動を言うのである」

「ヌースの働きであるノエシスとは、思量の如き継続に依って行われる運動ではなくして、思惟と云うならば現在の瞬間に遂行完成する思惟なのである」

「ノエシスは叡智的直観である」

宗教哲学というものは、弁証法神学の中では、余り重視されていないと思うが、私としてはいくらか復権を主張したい。啓示抜きの哲学という図式に対して、いや、啓示を含めた哲学もあるのではないか、という問題提起である。判断の最終的法廷として理性を置くのが哲学、啓示を置くのがキリスト教として、理性と啓示を分離するのは、一面、正しいが、啓示の中で働く理性もある、それが宗教哲学である、そういう立場もあるのではないだろうか。

ヌースは聖霊、ノエシスは霊感、叡智界とは霊感の働く場、そう翻訳してみれば、キリスト者の内的経験に近づくであろう。そのように翻訳していくと、割合、うまく説明されていることに気づく。

聖書の言葉で表現されていない時、それは別の事態を表していると思わず、あえて、自分の土俵の中に引っ張ってくることも理解の大切な準備作業と思う。

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2007年7月22日 (日)

根源の現れ

「《哲学的》思考の学校。それは、結局のところ、経験的合理的な思考を、最後の土壇場まで追いつめることでなければならない。そこまでいってはじめて根源が現れる」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

経験的合理的思考を追い詰めていった時に現れる根源は自然神学の神である。しかし、その神は、実存の神ではない。だから、経験的合理的思想の果てに真実の神が現れる保証はないと思う。

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教会とは

「教会を神の国と同一視し、教会の歴史的観念を神の国の終末的観念と同一視することは、聖アウグスチヌスに由来するが、また客体化された意識から生まれる幻想の一つである」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

「見える教会」と「見えない教会」の区別をしていく中で、アウグスチヌスは教会と神の国との同一視を避けたのではないだろうか。

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孤独と不安

「倫理的に見れば、リルケの孤独と不安とは、彼がつねに正銘ならぬものを反発して実存的により偉大なものへと自己を克服して行くための大切な契機であった。抽象的にはネガチーフな概念である孤独と不安とが、事実的に見ればリルケを高い肯定の中に生みだす力となった」(『神秘主義・象徴主義』)

人は、孤独と不安を本能的に怖れている。そこでつぶれる人もいるが、それを乗り越える人たちもいる。乗り越えた人たちは、その秘訣を隣人に知らせなければならない。

福音というものは、その方法でなければならない。

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弟子

「人間は優れた人格であれば、自ずと弟子、追随者が生じます」(『聖アウグスチヌス「告白録」講義』高橋亘著)

親鸞も内村鑑三も弟子、後継者を作らなかったが、多くの人たちが、その教えのあとに続いている。弟子、後継者を作ることを目的としないで、ただ、真理を問い、真理を伝えることに徹すれば、弟子、後継者は絶えることはない。

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2007年7月21日 (土)

体験

「哲学的認識の根底には具体的な体験が存在するものであって、それは抽象的な幾多の概念、一つの道具にすぎない推理的思想によって決定されることはできない」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

ベルジャーエフは、この体験を語り続けたのだろう。彼は、日記を書かなかったが、膨大な本そのものが、日記みたいなもので、ある意味では、自分を語り続けたのである。その著書が共鳴を呼び、また思索の種が満載している理由が、ここにあるのだろう。

ところで、この体験は何か。聖霊体験なのだと思う。もちろに、彼は異言や預言については語らないが、ある意味では預言的ではある。そして、私は、こちらの方が本来の「預言」なのではないかと思う時がある。

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神秘体験

「ローマ・カトリック教会のほうが神秘主義に対しては寛容でした。その理由は自然神学(創造主なる神を自然の推論によって知るというやり考え方)と、恩寵による神の啓示という考え方からやがて、カトリック教会が第三の範疇、すなわち神秘的神学(神秘体験を通しても人は神を知るという立場)を受け入れるようになったからです。カトリック教会のこうした動きの背景には、特定の、聖人と呼ばれる人たちが経験した神の臨在体験がありました。それはある種特異な、強烈な神との交わりの体験でした。プロテスタント福音派は、自然や神秘的主観主義によってではなく、神の啓示である聖書によってのみ、人は神を知ることができるとし、カトリックのような三段構えのアプローチを拒絶しています」
(『喜びの旅路』ジェームズ・フーストン著、長島勝訳、いのちのことば社、118頁)

自然神学の定義は、その通りと思います。しかし、「恩寵による神の啓示」の中に新生・聖化における聖霊体験は含まれているのか、という問いがあります。もし、含まれているのであれば、それもまた神秘体験ではないかという問いが続きます。そして、その神秘体験と、カトリックの神秘的神学とは、どういう関係なのかという問いもあります。

「聖書によって、人は神を知る」と言っても、聖霊の働きがなければ分からない。それは神秘体験とは言わないのか。私は、言ってもいいのではないかと思います。

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自分探し

「アウグスチヌスは反省によって人間の心の内部を観察し、それを叙述する能力において、西洋思想史上でも稀に見る人と言われておりまして、或る人はアウグスチヌスの哲学を「内的体験の哲学」と呼んでおります」(『聖アウグスチヌス「告白録」講義』高橋亘著)

「自分探し」とか、「自己実現」、流行語となったが、そんな関心の中で、アウグスチヌスを読めば、得るところは大きいと思う。

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課題

足もとを 見れば課題が 横たわる
 あなたの出番 そろそろかもね

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手段以上

「第一に、当然なすべきことは、神がすべての手段以上の方である、ということについての生き生きとした意識を常に保有することである。それゆえに、全能者を制限するのをやめなさい」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

手段というのは秘跡の意味なのだろうか。彼は恵みの手段を重んじたのであるが、同時に、手段と神を同一視しなかった。「生き生きとした意識」というのは、あのアルダスゲイト街での体験以来の、霊的感覚のことであろうか。それがあり得るというのが、この文の趣旨であろうか。

全能者は恵みの手段・秘跡に制限されていない。直接的な働きかけもあるという意味であろうか。しかし、それは恵みの手段・秘跡の無視を意味しはしない。

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マリア

イエスの周辺には三人のマリアがいた。母マリア、マグダラのマリア、マルタの姉妹のマリアであった。三人とも、いろいろな物語をわれわれに与えてくれている。その中で、比較的、語られないのは、マルタの姉妹のマリアである。しかし、このマリアは、キリスト者の生き方の中では、ある意味では、一番身近な存在なのではないだろうか。

マグダラのマリアとの関係は、差別され、抑圧されている人々へのイエスの眼差し、かかわりの象徴の意味も持っているのであろうか。そして、マルタの姉妹のマリアは瞑想的生の活動的生への優位を意味しているのであろうか。

最近、霊性という言葉をよく目にする。最近といっても、その「盛り」は過ぎたかも知れないくらいの最近である。

よく分からない言葉であった。しかし、キリスト者が、この言葉に触れた時に、聖霊と翻訳してみれば、どうだろうか。完全に一致しなくとも、一般(いくらかキリスト教界も含むけれど)には「霊性」という言葉で、「聖霊」体験の重要性が語られているのだと、解釈するのである。その時、時代の求めが、よく分かるのではないだろうか。そして、聖霊と翻訳した時の比較をすれば、事態の理解は深まるであろう。

座禅に関心を向けるカトリックの神父さんがいる。瞑想の「手段」という位置づけなのかも知れない。もちろん、禅宗の方では、「手段」的位置づけは、困るかも知れない。

瞑想は、いかにして可能なのであろうか。それは、キリスト者にとっては、新生後の聖化の過程における、聖霊の魂への直接的働きかけへの注視を意味するのではないかと思う。それが、マルタの姉妹マリアの象徴するものなのではないだろうか。それは至福に近い。マルタよりマリアが優位に立つのは、その意味なのだろう。

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この世

この世にあって、この世の霊に不感症になっているのが、キリスト者であろうと思います。『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)には、次のような言葉があります。

「私たちは、非難したり賞賛したりする世に対して、はっきり死ぬ覚悟がなければならない」

「神の確かさを握っている人は、この世のものを非常に軽く見ることができる」

「死ぬ覚悟」というのですが、キリスト者は既に、この世に対して死んでいます。自分の力では「死ぬ」ことはできません。これは自殺の意味ではありません。

この世に不感症になっていても、この世に無関心になることはいけないといいます。この矛盾を生きることが大切です。

この世は、よく観察すれば、やはり目的を持っています。その目的のありかを知らせることがキリスト者の使命と思います。この点で、この世にかかわらなければなりません。そして、その意図をもってかかわる時に与えられる充実感は、そのかかわりが正しいことを語っているのだと思います。

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二重性の真理

命題は 一つなりとも 受け取るは
 二種の人なり 真理は二重

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瞑想

霊的な 感覚めざめ その刺激
 無の心にて 何かと問えば

瞑想は 無の修行なり 霊的な
 感覚を見る そのまなざしに

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賀川学

社会派と 福音派あり その絆
 賀川求めて 霊感放つ

雑学と 言われながらも 祈りあり
 その温かき 知る人多く

賀川豊彦を学ぶ学会があります。彼が今も、われわれに残しているものは何か。その一つに、社会派と福音派との統合的視点があったと思います。彼は社会派単独でもないし、福音派単独でもない、その両者の要素があり、また統合的理論を考えていたと思います。

彼は米国の南長老教会の宣教師に見い出されるのですが、その実践を思う時、むしろウェスレーとの類似を強く印象づけられています。

賀川の温かさについては、いろいろな証言があると思います。

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『不可解なるウェスレー氏』

諸宗教との関係で、ウェスレーは包括主義の外にいるという(『メソジストって何ですか』225頁)。これは理解できない。

また、キリスト教の中の立場としても、自分は高教会主義者であり、同時に福音主義者である、といっている(『メソジストって何ですか』228頁)。これも理解できない。

そこから、ハイツェンレーター著『不可解なるウェスレー氏』という本もあるらしい。

諸宗教との関係では、包括主義が、ぎりぎりキリスト教信仰を保持しての、他宗教との関係の「立場」である、と私は思っている。しかし、包括主義的立場が「あっさり」否定されているとは、やはりウェスレー氏は不可解である。

英国では、高教会はカトリック的であり、福音主義は低教会と言われている。そして、福音主義が高教会のカトリック的要素に反発して、ピューリタン移住者たちが米国に渡り、やがて、米国の独立になったというのが歴史の教科書の見解である。そういう歴史を、ウェスレー氏の「告白」は、不可解にしているという意味かも知れない。

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2007年7月20日 (金)

「救われた」

プロテスタントの中では、「救われた」という言葉が、よく使われる。信仰を持ち、新生したという意味なのだろう。しかし、「救われた」という言葉は、全部終わったという意味にもとれる。そう受け取ると、何のために生きているのか、という問いが新しく出てくる。

信仰義認、そして新生の事態は「救われた」と言ってもいいが、同時に「聖化のスタート」でもある。この聖化の目標として「完全」があり、「栄化(再臨)」がある。

「救われた」信仰者たちに、「栄化(再臨)」と比べたら、まだ「救われていない」側面もあるということを言わなければならない。とりあえずの目標が「キリスト者の完全」であり、「聖霊のバプテスマ」であろうか。

その「救われた」という事態は洗礼に当たり、「聖霊のバプテスマ」は堅信に当るのかも知れない。洗礼も堅信も秘跡であるが、秘跡は聖霊の働きと結びついていなければならない。

「救われた」ということは、洗礼の恵みを知ったという意味なのかも知れない。同時に、洗礼は、この「救われた」実感と、どこかで結びつかなければならない。

そう思うと、宗教改革の原点は洗礼の再発見なのだと思う。

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未知の領域

「聖別された生涯は、けっして楽なものではない。このことを私たちは、未経験で未知の領域へとはいって行くときに、おぼろげながら知ることができる。しかし彼は、あわれみをもって、不必要に私たちを驚かせたり気をくじかせたりするものにベールを掛けて、それらのものが私たちの目に見えないようにされる。そして、私たちに、試みに耐える力ができたときにだけ、ご自分の要求を明らかにされるのである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

信仰生活というものは未知の領域の探検のようなものである。道案内がいれば安全であろうが、いない場合もある。そんな時、古今東西の文献から、また理性から、経験から、信頼できる情報・知識を集めなければならない。そして、そんな情報・知識は、探せばある。暗闇の中を手探りで、牛歩の如く前進していく。そのうちに、少しずつ、明るくなり、見えてくるものがある。それを表現していけばいいのだ。仲間は大勢いることが分かるだろう。

この未知の領域は、知られていないようではあるが、見方を変えれば、よく知られている。神は未知の方ではあるが、万人が神を知ろうとしている。だから、その知識は、ある意味で、地上に溢れているのである。

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預言と異言

預言も異言も体験しないでは分かるものではない。だから、未体験者としては、それらを非神話化して、解釈して受け止める以外にない。

預言も異言も、聖霊の能力といった印象を受ける。しかし、聖霊を受ける、という言葉に、その能力を含まない場合もあるだろう。新生と聖化が、聖霊の働きであり、ふつう、そこには、人の目には異常に見える預言と異言はない。新生と聖化で十分ではないのだろうか。そういう信仰があっても、いいのではないだろうか。

原点は聖霊降臨である。その結果としての「預言と異言」である。初代教会には、それがあった。今もあるのだ、と、ある人たちは言う。しかし、りんごの味は、食べた人でなければ分からないように、その賜物を受けた人でなければ分からない。

聖霊を受けた時からの表現活動は、一般の人々には、分からない言語によるものだろう。ここに異言の非神話化的解釈がある。しかし、また、同じ、聖霊を受けた人には、ある意味で分かる言葉であろう。ここに預言の非神話化的解釈がある。

こうして見ると、聖霊降臨後の人間の表現活動は、異言と預言で、すべて言われている。なぜなら、この世には、信者と未信者の二種類の人たちしか、いないからである。

私は、これからも、預言と異言の賜物はもらわないかも知れない。しかし、非神話化的解釈によって、この聖書の記述と、ある意味で積極的にかかわることができる。

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なぜウェスレーか

比較して、ウェスレーよりもホイットフィールドの方が雄弁家であった。しかし、後世への影響では、ウェスレーの方が大きい。ウェスレーの説教を人々は好んで聞いたという。なぜなのだろうか。

おそらく、ウェスレーの話の中で、人々の関心事がつかまえられていたからではないだろうか。それに対して、きちんと対応したからではないのだろうか。

さまざまな論争を通して、論点が明確になり、信仰の認識も深められていったのではないだろうか。「一書の人」は「万巻の書の人」でもあった。

たとえば、今の日本に置き換えてみれば、仏教徒のひろさちやさんが、キリスト教やイスラム教を論じるように、キリスト教の専門領域を超えて、広く、深く、論じることのできるような人ではなかったろうか。

リバイバルを求める人がいる。しかし、救われた人たちが、自己理解を深める材料が乏しい環境で、どうして救いを維持できるのだろうか。

ウェスレーは、人々の現実を見て、それに丁寧に対応していったのだと思う。

貧困者への対応を見る時、救世軍は、やはりウェスレー精神の一つの展開のように思う。『メソジストって何ですか』(清水光雄著、教文館)は、ウェスレー研究の案内書として、一読を勧めたい。

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聖霊のバプテスマ

ウェスレーはペンテコステの体験に言及している。それと、キリスト者の完全とは、どういう関係か。フレッチャーは自分のペンテコステ体験の中で、そんな考察をしているらしい。

フレッチャーにも注目すべきではないのだろうか。彼は、現在のメソジストとペンテコステ系信仰の中間にいるらしい。特に、カリスマ運動の展開してきた現代においては。メソジストとペンテコステの関係については、現在の関心事、そんな時、フレッチャーとウェスレーの関係に着目する必要があるかも知れない。

フィニーについても、そんな中間らしいという指摘もあった。

信仰とは、やはり、メソジストやペンテコステがいうような領域に至らなければ、ということなのかも知れない。

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2007年7月19日 (木)

聖伝

プロテスタントとカトリックの違いについて、公式的に言われるのは、前者が「聖書のみ」、後者が「聖書と聖伝」ということ。

聖伝の「伝」は、伝統か、あるいは解釈原理なのか。私は、そんな意味にとっている。

プロテスタントは、その後、多くの教派に分かれた。そして、それぞれの教派は、それぞれの解釈原理を持っている。あたかも「聖伝」のように。

「聖書のみ」の原理といっても、教派による解釈の多様性を思う時、その多様性を「聖書のみ」とどう関係づけるかが問われるのではないだろうか。

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外的な行為

「しかし、時のたつにつれて、「多くの人の愛が冷えた」時に、ある人々は手段を目的ととりちがえて、宗教を神のかたちにかたどって更新された心よりもむしろ、これらの外的な行為をなすこととして位置づけ始めた」 (『説教』ジョン・ウェスレー著)

高教会主義者であり、恵みの手段を重視したウェスレーは、「更新された心」を重視したけれども、それは「外的な行為」を無視したことではないように思う。

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中世の見方

「ウェスレーは父母から中世のカトリック作品の読書を勧められたが、コンスタンティヌス大帝以降のローマ社会を教会の堕落と捉え、国教会と同様、中世ヨーロッパを評価せず、アッシジの聖フランチェスコにも言及しなかったことも事実である」(『メソジストって何ですか』清水光雄著、教文館、126頁)

中世の始まり、コンスタンティヌス大帝の回心はキリスト教の勝利なのか、敗北なのか。単純に勝利と言えないかも知れない。

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我意

「地獄にて燃ゆるは我意のみ。されば汝自身の我意を去れ、さらば地獄はなかるべし」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)

我意とは何か。罪に染まった自意識というものだろうか。その時、「我意を去れ」とは、罪を分離して捨てよ、という意味で、自意識をなくせ、という意味ではないだろう。自意識は死後もなくならない。

「罪を分離して捨てよ」というのは、信仰によって、キリストの義のマントをいただき、それですっぽり身を覆うことかもしれない。そこでは、自意識はあり続ける。そして、神と人との関係が変化するから、自意識にまとわりついていた「罪」も活動をやめる。

信仰義認とは、こういう理解でいいのだろうか。

しかし、そのあとに新生と聖化が続くのだろうと思う。それは、神から来る聖霊という神の内住であり、その感化というものかも知れない。

信仰義認というのは、神と人との関係の変化、新生・聖化というのは、信仰義認に基づく、人間自身の変化という理解でいいのだろうか。

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2007年7月18日 (水)

神の実感

「われわれは、この魂の反応(それが何と呼ばれようとも)が、魂の中における神の命を存続させる為に、絶対に必要である。なぜなら、魂が神に反応しなければ、神は魂の上に働きつづけられないからである」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

この魂の反応というのは、神の実感を意味しているのだろう。その感覚について、ムーディーは、こう言っている。

「私は丁度風が顔を撫ぜるのを実際感ずるように、心の中に働き給う神の霊を感じている」(『神への道』D.L.ムーデー著)

神の実感というのは聖霊の実感といってもいい。だから、ここに「風」という言葉があるのも、象徴的に意味があるかも知れない。でも、ここでの感覚は五感ではない。五感ではない感覚を何と呼ぶのかは知らないが、しかし、ある。

五感を通さない直接的な神の感覚、それをウェスレーは霊的感覚と言っているらしい。

「ウェスレーは霊的感覚の教理を展開した。霊的感覚とは身体的五感による自然的感覚と同様、心に聖霊が働いて与えられる感覚、霊的感覚である。神の子であるとする神の証言は霊的感覚を通して十字架の意味が明白になり、この聖霊の証による義認の確証はすべてのキリスト者に特権として与えられる。霊的感覚が聖霊の働きで目覚めた時、罪人を義とする神を直接知る。この神認識は身体的五感に基づく一般的認識と同様、確かさの伴う知覚しうる知識である」(『メソジストって何ですか』清水光雄著、教文館、43頁。注部分は略)

しかし、この強調は、熱狂主義者と誤解されるかも知れない。だが、議論すべきではないだろうか。きちんと理解するために。そして、誤解をまき散らさないために。

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ウェスレーの追放

ウェスレーが国教会から追放されたいきさつについて、『メソジストって何ですか』(清水光雄著、教文館)が詳しく書いています(42-45頁)。

それによると、ウェスレーの信仰理解には三つの形態があり、第一が理性的同意としての信仰、第二が信頼としての信仰、第三が直接的・霊的体験としての信仰であった。国教会は第一と第二、ウェスレーは第一から第三までを主張し、第三の主張のため、ウェスレーは熱狂主義者として国教会から締め出されたというのである。

この議論が今でも有効なのかどうか知らないが、第三の信仰を主張することが、そんなにおかしいのであろうか。

この本は一読の必要があると思います。そして、第三の信仰理解を深めていかないといけないと思います。そこには、第一、第二だけでは何か不十分という理解があるからです。

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錬獄の考察

錬獄はカトリックの教えであり、プロテスタントにはない。煉獄という表記もあるが、錬獄を使う。

マタイ福音書25章に「天国のたとえ」がある。

ある人が旅に出る時、その僕に自分の財産を分ける。能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントと分けて、旅に出た。5タラント、2タラントを預けられた人は、それで商売をして、もうけた。しかし、1タラントを渡された僕は、その金を隠しておいた。

僕の主人が帰ってきて、計算を始めた。もうけた人はほめられて、もうけなかった1タラントのものは叱られた。

そして、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(29-30節)と、主人に言われる。

この「天国のたとえ」を、どう読んだらいいのだろうか。もうけた僕たちは天国へ、もうけなかった僕は地獄へ、と、そう読むべきなのだろうか。

別の読み方もあるかも知れない。それは「錬獄」は救いの範疇である、ということを考えてのことである。僕は全部、救われるのである。1タラントのものは天国に行くのではなくて、錬獄に行く。錬獄は天国への道である、という理解である。

なぜか。それは、ある人の財産というものが聖霊であり、聖霊を分けられるということは、救われる、ということを意味するからである。救いというものは、主人が帰ってきて、計算を始め、そこで決まるのではなくて、旅に出た時、財産を分けた、というところで決まるからである。

主人のお叱りを受けるということは、天国に直行するということではなくて、錬獄に行くことを意味している。しかし、やがて、天国に行く。

もうけた僕たちは、地上の生において「キリスト者の完全」を達成したという意味であろう。

もうけなかった僕は「外の暗い所」に追い出され、そこで「泣き叫んだり、歯がみ」をするという。これは、一般的には、地獄のことであろう。そして、「持っているものまでも取り上げられる」のであるから、主人の財産、聖霊も取り上げられるということなのかも知れない。そうすると、そこは錬獄ではなくて、地獄なのだということになる。だから、1タラントのものは地獄行きなのだということも一理ある。ここは解釈の分かれることろかも知れない。

しかし、私は、もうけなかった僕にも、何かの希望を見い出したい。それとも、希望はないのだろうか。

そなことを考えていると、ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出す。プロテスタンティズムの基本的読み方は、もうけなかった僕も救われるという理解である。しかし、ピューリタンたちは、もうけなかった僕は地獄に行く、と読んで、怖れに身震いしたのだろう。その気持ちはよく分かるのである。ただ、信仰義認の教えというものは、そうではなかったのではないか、という疑問を私は感じてきた。この「天国のたとえ」を、どう読むかで、その後の生き方も違ってくる。

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2007年7月17日 (火)

キリスト者とは

キリスト者とは、と問う時、一般的には「洗礼を受けた者」となるかも知れない。もちろん、例外はある。その例外においては、洗礼の指し示すものを強調している場合もある。それは聖霊の働きである。『ジョージ・フォックス』(山室武甫著)には、こんな指摘がある。

「基督者とは、聖書の知識を有するとか、教会の権威に服するとかいうことによってなれるものではなく、内的光明の啓示によってイエスの御姿を認め、彼の品性や行為が其の啓示によって変化されたものであるべきである」

「聖霊の力がなければ、かりに聖書の言葉であっても人を助けることができない」

要するに、聖霊の力によって新生し、聖化の道を歩んでいる人、という意味なのだろう。水の洗礼も、また聖餐(聖体)も、新生、聖化に働く聖霊に結びつかないでは、その意味をなさない、と思う。洗礼と聖餐(聖体)を重視する人たちは、そのことを無視してはいないと思う。

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アクセス解析故障

アクセスの 解析故障 更新を
 一休みせよ どこからか声

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北朝鮮の不思議

北朝鮮と米国とは、どういう関係なのだろう。北朝鮮は米国と対立しているけれど、米国を怖がっているようにも思える。体制の保障を求めるというが、普通は対立国に対して言うような言葉、メッセージではないのではないだろうか。

日本は敗戦のころ、国体の護持を求めて、連合国と交渉をしたが、その時の日本のような気分なのだろうか。

何か、旧日本の「残党」が、かの地で、米国との戦闘を継続しているような気もしている。しかも、日本の敗戦という歴史の事実を、しっかりと踏まえて、あの壊滅的敗北を避けるために、米国に擦り寄っているような気がする。

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韓国の衝撃

クリスチャントゥデイの背景に関する、ある人物の疑惑にからんで裁判問題が持ち上がったことをきっかけにして、日本のキリスト教系の週刊新聞が、それを報じたことで、初めて、電子新聞「クリスチャントゥデイ」の存在を知ることができた。もし、それがなかったのであれば、日本にも、キリスト教系の電子新聞があることを知らなかっただろう。

それにしても、日本のキリスト教系新聞が、この新しいメディアについて、それが存在し始めた段階でなぜ、いち早く、それを報じなかったのだろうか。そんなに軽い事柄なのだろうか。

ところで、日本のキリスト教界の目は韓国に向いていないと思うが、なぜなのだろうか。この目は今でも欧米を向いている。韓国のキリスト教に関する著書が、どれほどあるのだろうか。著書がないから、知識もない。そして、共感も生まれない。なぜだろう。

そんな中で、韓国のキリスト教界の目が日本に向けられていることを感じる。それにつけてもなぜなんだろう、という思いがする。

韓流ブームがあった。日本の一般の人々が韓国に魅せられた。そこには、韓国文化の背景にあるキリスト教の影響があるのかも知れない。その魂に魅力を感じたのだろうか。しかし、韓流ブームの「なぜ」に、そういう分析もあったとは記憶にない。

われわれの足もとに変化が起きている。それでも、出版される本は、アジアを向いていない。日本はアジアの一員ではあるが、関心は圧倒的に欧米を向いている不思議な国である。

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2007年7月16日 (月)

錬獄的観念

「わたしたちの考えでは、いかなる人も永遠のいのちへのこの前段階をこの世において経験しなかったなら、墓の向こうに行ってからなにもしないで直ぐには永遠のいのちを得ることはできないでしょう」(『同情と信仰 ヒルティ著作集7』カール・ヒルティ著、岸田晩節訳、白水社、448頁)

これはヒルティにおける錬獄的観念なのだろうか。これは、永遠のいのちが与えられる人について語っているのだから、既に救われている人についての言及である。

しかし、この世で始まった救いも段階があり、この世で終わらなければ、あの世でやらねばならない、と言っているようでもある。その限りでは、新生から栄化までの過程で、人間には通らなければならない段階があるということらしい。

ウェスレーは、その目標を地上では「キリスト者の完全」においた。カトリックなら、聖人を目指せ、ということなのかも知れない。もっとも、聖人は、その人の死後、教会が決める確定事なので、地上において、信者の自覚の中の目標として現れてくるものではない。その意味では、やはり「キリスト者の完全」を目指すことが、当面の目標といってもいいかも知れない。地上では、「完全」者といえども、それを失う可能性がある。しかし、聖人は確定している。

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世界伝道

『信仰の高嶺めざして』(F.B.マイヤー著)には、世界伝道への勧めといった言葉がある。たとえば、次のような個所である。

「この危急の時代にあって、神の教会の全部分が、ただ知識や霊的経験だけではなく、世界伝道のため神によって召されている。これ以上に、はっきりしたことはない」

「もしすべての人がそれぞれの隣人を教え、すべての人がそれぞれの兄弟に「主を知れ」と言ったなら、全世界がくまなく伝道されるのに、そう長くはかからないであろう」

信仰を持って、まもなく、ある地域を定めて一軒一軒訪問して、トラクトをポストに入れたこともあった。旅行カバンにトラクトを詰め込んで、バスに乗って、僻地に向かい、配布したこともあった。その働きの間、恵みが与えられたと感じたこともあった。

しかし、トラクトを受け取った人は、どう思ったであろうか。自分は何をするのかと考えたかも知れない。

トラクトは「信仰のよる救い」を語り、救いを促すものである。しかし、では、信じたとして、その人はどうするのか。教会のないところで、どうして新しい経験を認識し、それを成長させることができるのだろうか。

伝道とは、単に知らせるだけではなくて、その後の成長にも責任を負うものでなければならないと思う。そういうものがあって、初めて、福音を伝えることができるのではないだろうか。なぜなら、信仰が後退してしまうと、それは信仰を持たなかった時よりも、悪くなる可能性があると思われるからである。

世界伝道というものは、教会が聖霊に満たされているのであれば、その中から、自然に実行されていくもののように思われる。言葉の前提に聖霊の現実がなければ、伝道は成り立たないであろうし、逆に聖霊の現実があれば、伝道の道は自然に開かれていくのであろう。

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コメント力

文庫本 コメント力に ピンとくる
 トマスの魅力 コメントで知る

文庫本に『コメント力』という題のものがありました。面白いネーミングと思いました。そして、コメント力こそ学問力と思いました。

トマスの魅力は山田晶氏のよる詳細にコメントで教えられたからです。コメント力は学問力と思います。

コメントを書き続けるということが大切と思います。

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忙しい

「時間がないというのが多くの人の自慢であるのと同様に、いつも時間があるというのがアインシュタインの自慢であった」(『アインシュタイン』P.フランク著)

一般的には「忙しい」ということは「よい」ことのように思われている。逆に、「暇」は「かわいそう」とみなされる。

しかし、「忙しい」には「反省と瞑想」の時間がない、ということも意味する。

しかし、「反省と瞑想」が、ただ自分の心の中での運動に終始するのであれば、「かわいそう」が現実化してしまう。

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カトリック教会

「岩下さんは「信仰の遺産」という本の中で、カトリック教会の特質を人物中心主義の逆だということを非常に強調しておられる。特にこれはプロテスタント教会、なかんずく無教会主義を相手どって強調しておられるんですけれども、カトリック教会では「あの人物」「この人物」というようなことは問題にならない。なぜかというと、サクラメント中心の教会だから、サクラメントの執行者は人物でなくたっていいというのですね」(『現代日本のキリスト教』)

これは確か、北森嘉蔵氏の発言であったと思う。岩下とは、岩下壮一神父のこと。「サクラメントの執行者は人物でなくたっていい」とあるが、この人物は「人間」という意味ではなくて、「カリスマ的人間」という意味なのだろう。

プロテスタントは特に説教を重視している。だから、プロテスタント教会、特にカルビン系教会の説教を聞いて、カトリックの説教を聞くと、幻滅を感じることもある。説教で、キリスト者の成長を考えるなら、プロテスタント教会の説教を聞いた方がいいと思う。

しかし、カルビンに心引かれ、ウェスレーに心引かれ、内村鑑三に心引かれ、そういう現実を、自分の心に感じる時、選択に迷う。一つを選択するということは、その他を捨てることを意味するのだから。プロテスタント教会群の中に立って、どれを選択すべきか、という課題に直面する時、これは大変困難な課題である。

そんな時、カトリック教会にいくらかは目が行くのである。そこでは説教は、あるいは貧しいかも知れない。しかし、別に説教だけで信仰の成長がもたらされるのでもない。いろいろなチャンネルがある。そのチャンネルをうまく活用すればよい。そう思うなら、この教会にも目が向くかも知れない。

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2007年7月15日 (日)

孤高

「あなたがどんな職業に従事していようとも、あなたは孤高でなければならない。さもなければ、あなたは破滅である。地獄への道には孤高というようなものは、全然ない。しかし、天への道は、到る所で孤高を要求する。一歩でも、あなたが神の方へ近づけば、あなたは他の人々のいようではない。しかし、このことを重要視してはならない。奈落に落ちるよりは、孤独である方が遥かに良い。だから、あなたの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬきなさい。一緒に走る仲間が、ほとんどなくてもである。仲間は、いつまでも、そんなに少ないのではない。ほんの暫くたてば、あなたは、「無数の天使の会合、長子たちの大集会と教会、全うされた義人の霊のところへ行く」だろう」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

地獄の苦しみというのは、おそらく、絶対の孤独という意味、その境地なのだろう。人間は交わりの中で生きるように出来ている。その交わりが絶たれて、絶対の孤独になり、しかも自意識がなくならない、それが地獄の苦しみの内容なのだと、私は思う。

その意味で、孤高は、ある程度、地獄を予想させる。しかし、神との交わりは、孤高であっても、絶対の孤独には陥らない。だから、他人には、地獄を予想させるような生き方をしていても、自らは十分に満足しているのである。

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宣教

「福音は常に宣べ伝えられねばならぬ」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

教会とは福音を伝えるところである。しかし、今、教会でのみ福音は伝えられてはいない。インターネットを通して、自宅においても、説教を聞くことができる。その他、書籍、雑誌、新聞を通して、福音は伝えられている。

牧師、司祭だけが福音を伝えているのではない。信徒が、証しという形で伝えている。

宣教は、それら全体を指すのではないだろうか。

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滅ぼしつくす

「神以外の凡ゆるものは我々を滅すにしても、決して滅しつくすことはできない。然し神は我々を滅しつくすことができる。この故にこそ我々は神以外の何ものをも恐れず、神のみを真実に懼れねばならないのである。--我々を滅しつくさずには熄まない神、これが怒の神である。而してこの神の怒は現に我々の上にある。「げに之を懼れよ」とイエスは言い給う」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

人は魂であり、その魂は死後、天国に行くか、地獄に行くか、二つの一つである。そうキリスト教は教える。そこで、地獄に落ちた魂は、そこで魂がなくなるのか、といえば、そうではなく、魂はあり続けるという。

だから、「滅ぼしつくす」といえるのかどうか、という問いがありうる。魂の実体がなくなるのであれば、「滅ぼしつくす」といえるが、そうでない以上、滅ぼしつくすといえるのだろうか。

著者が言いたいのは、地獄に落ちるということを、滅ぼしつくすという言葉で、強調して言っているのだろう。

しかし、むしろ、魂の実体が死後はなくなる、という仏教の教えの方が、人は滅ぼしつくされるという教えなのではないかと思われるのである。

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終末論

「究極的なるもの即ち終末は一方に於ては既に現実となっておるにも拘らず、同時に他方に於ては将来に追求さるべきものとして示されているのである。これら二つの矛盾せる真理が一つに結合する時、ここに生ずる緊張こそ最も深き意味に於て終末論的なのである」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

内村鑑三が再臨運動を中止したのは、終末の現在を知らない人たちが、将来の終末に関わり出す中での異常を憂慮したためであった。しかし、また、終末の現在にのみ「安住」して、将来の終末への関心を失うこともまた、問題なのではないだろうか、という問題意識が、この個所で提起されているのかも知れない。

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教会

CJC通信によれば、バチカンの最近の声明に関して、世界教会協議会(WCC)は2006年2月の第9回大会での見解を確認したようです。そこには、こうあるとのこと。

「各教会は公同の教会であるが、その一部ではなく、またその全体ではない。他の教会と一致している時に、各教会は公同性を充足する」

要するに、これがプロテスタントのエキュメニズムの精神というものなのでしょう。それは、教会協力の推進であって、その中で、各教会の主体性は完全に守られています。バチカン声明をそのまま受け取ると、カトリック教会への吸収路線になります。

WCCによれば、公同性とは、他の教会と一致している時に現れてくるというもので、それを促しているものの、現に「ある」ものとしては見ていない。

「各教会は公同の教会であるが、その一部ではなく、またその全体ではない」という個所も、解釈が求められていると思います。

教会の協力と一致の中での公同性の実現が、教会の目標となっている。「公同の教会の実現」、それは「静的な見える教会」ではなくて、「動的な見える教会」のようにも思います。カトリックの方は、「静的な見える教会」を目指しているのでしょう。

一方、ルーテル世界連盟でも、「驚きと失望」を表明しているようで、バチカン声明を受け入れることが出来ないといっているようです。しかし、目新しいものではない、との指摘もしています。

使徒継承が必要だ、とバチカンは言うのですが、ルターは、信仰義認と使徒継承の選択を迫られて、使徒継承を捨てた、という理解なのであれば、この点に関しては、両者の現実理解に違いはないと思います。ルター派教会が、使徒継承を言うのであれば、カトリックとは別の解釈の中で言われているという意味です。

ただ、「見える教会」と「見えない教会」との比較が指摘されていなかったというのが、残念でしょう。

教会、公同性、「見えない教会」、それらの関係を探っていけば、理解は、もっと深まるのではないでしょうか。カトリック教会の公同性は「見える教会」において考えられていて、プロテスタント教会では「見えない教会」において考えられているのですから。カトリック教会は、「見えない教会」を認めないとなると、現実の解釈が、なお困難になると思うのですが。

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2007年7月14日 (土)

熱心

「知識によらないあの熱心を用心しなさい」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

信仰に熱心になるということは知識を排除しない。知識を理性と言い換えてもいい。信仰は理性の犠牲において成り立つものではない。理性を超えるかもしれないが、反理性ではない。

信仰というものは、信じない人たちに対して、説明できるものでなければならないのだろう。

「ただ信ぜよ。信ずるならば、誰もみな救われん」。そんな聖歌を歌ってきた。それは救いの瞬間の信仰(信頼)を指しているのであって、そのあとは、自分の身に何が起きたのか、自分にも、また他の人にも説明できるようにならねばならない。その段階で、理性的働きを封殺するような、信仰的熱心さは、逆に警戒されなければならないと思う。

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科学の限界

「20世紀の初頭から、科学は観測の結果を記述し系統立て得るのみであるという見解と、科学は実在の世界を研究し得るしまた研究しなければならぬとする見解との間の争いは、ますます強められていった」(『アインシュタイン』P.フランク著)

英国の物理学者の著名な某氏が、これからは祈りの研究の次代が来るであろう、ということを言っていたらしい。印象に残った。

しかし、これは科学の限界の彼方にある課題ではないかと思う。

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創造的講義

「アインシュタインは学生のために教材を苦心して作りだすことを好まず、彼が興味をもち、彼がたずさわっている事柄に関して豊富に講義することを好んだ。こういうわけで彼は彼が現在興味をもっている分野を強調した。彼の講義にはややむらがあった。彼は、一年を通じて彼の講義に同じレベルの興味と優秀さとを保ち得るような秀れた教官ではなかった。しかしながら、学会、会議及び大衆を前にした唯一回の講義は、いつも彼の高度の気魄が、しみ込んでおり、各聴者に長く残る印象をあたえたのであった」(『アインシュタイン』P.フランク著)

アインシュタインの講義は、創造的講義とでもいうべきものであったのでしょう。もし、学生の中に波長の合う人がいれば、その展開が楽しみになるものであったでしょう。

教師は、いくぶんは、こんな調子でいいのだと思います。つまらない、興味のないことを教えられては、教えられる方は、たまったものではないでしょう。

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包括主義

糸永真一司教の「カトリック時評」というブログがあります。

その中で、「キリスト教と諸宗教」の記事(http://www.mr826.net:8080/psi/blog/070711#more)があます。

「諸宗教はその信奉者たちにとって救いの仲介となりうるか」という問いへの回答が記されています。

第一に、「排他主義」と呼ばれる「教会中心主義」は、ピオ12世はじめ、第二バチカン公会議の教えによって無効とされている、と説明されています。それは、洗礼を受けて、地上の教会に属さなければ救われないという見解です。

おそらく、プロテスタントの側でのカトリック批判の中には、このような「教会中心主義」がカトリックの立場という見方があるのではないか、あるいはあったのではないかと、私は思います。しかし、今では、カトリック教会は、それを明確に拒否しているというのです。

次に、「包括主義」と呼ばれる「キリスト中心主義」の説明があり、これが教会の態度と言われています。

第三に「多元主義」と呼ばれる「神中心主義」の説明があり、それは退けられています。

要するに、「包括主義」のみが支持されています。

私も、そのように思います。一読を勧めます。

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時間の浪費

「すべての創造的な活動には、多くの反省と瞑想とを必要とする。しかしこれは、皮相な観察者には無用な時間の浪費にみえるであろう」(『アインシュタイン』P.フランク著)

小泉前首相の提唱した「改革」は、競争社会の導入で、創造的活動の前提である「反省の瞑想」の時間を、時間の浪費として評価できないといった感性が強められたのではないだろうか。それに反発したのが、藤原正彦教授なのだろう。

しかし、それでも、「反省の瞑想」には何らかの結果があれば、時間の浪費ではなく、一般にも認められる余地が生まれるかも知れない。その点も一考すべきかも知れない。

実際、「反省の瞑想」も、その結果が外に出なければ、時間の浪費と見られても仕方ない、という見方に同感できなくもない。

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現在の様式

「人々は、もし私たちが人々を救いに至らせる影響を及ぼそうとするなら、現在の様式を少しばかりまねなければならないと言うであろう。しかしそれは決定的な誤りである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

著者は、「現在の様式」の言葉で、「福音の水増し」を考えているのだろう。その拒否を、ここで言っているのかも知れない。この「水増し」が、段階的なものであれば、一考の余地があるのではないだろうか。

しかし、「現在の様式」が、もっと道具的なもの、手段的なものであれば、それを取り入れることは大切と思う。16世紀の印刷、現代のインターネット、それらを抜きにして、福音を伝えることは出来ないであろう。

過日、二人の婦人が自宅を訪問した。ものみの塔の人たちだった。この団体は、現代でも訪問伝道という仕方に固執しているのだろうか。

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学生時代

ラジオ深夜便で、ペギー葉山さんの特集がありました。「学生時代」が歌われました。歌詞に、チャペルとか讃美歌という言葉が出てきて、ペギー葉山さんが学んだ青山学院大学が背景にあるように思いました。作詞の段階では、関係ないかも知れませんが。

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2007年7月13日 (金)

ひとりの魂

「私たちは、ひとりの魂を神のために獲得するときに、どのように偉大なことをしたかを知ることはできない」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)と言われている。なぜだろうか。

「若しも一個の男子又は婦人が神の力によって起こされ。預言者等や使徒等の持っているのと同じ御霊を以て立ち且つ生きるならば、其の男子又は婦人は、其の信仰告白を以て、其の十哩四方の全地域を震撼するであろう」
(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)というように、一人の力も、それが真の救いであれば、世界を震撼させるからである。

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啓示と霊感

「友会徒は総ての神秘家と同様に、啓示と霊感とは過去のみならず、現在もあることを主張した」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)

啓示とは何か、霊感とは何か、それが問われなければならない。

この主張は、ペンテコステ系教会や、カリスマ運動の中での聖霊の働きの主張と比較したら、どうなのだろうか。

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神秘体験

聖霊体験というのは、一種の神秘体験であり、その最初の体験を回心というのが通常であると思う。「真の進化は外部的に成就するものではない。宗教的なコンヴァージョンという事なしに、どうして本当に人間が人間の思想を180度転回し得よう」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)と言われるように、人生には神聖な瞬間というものがある。

たとえば、1889年、北インドのシーク族の富裕な地主の末っ子として生まれたサンダー・シングは、その伝記が何冊か出ているが、「最初は基督教を迫害したが、光の中に活けるキリストを見る経験をして回心し、献身と奉仕の生活に入った」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)。彼の資格は、ただ一つ、回心の体験であった。

このような神秘体験については、クエーカーの教えに学ぶところがある。『ジョージ・フォックス』(山室武甫著)には、こんな記述がある。

「ロイス曰く、「神秘家は徹底する経験論者である」」

「J.B.プラット曰く、「私は神秘主義を、通常の道程以外の、或は理智以外の方法によって、ある存在者或は実在者の現存を意識することであると定義したい。それは其の現存の感情的な意識であって、それに関する信念ではない。又、それは資格、聴覚、触覚等の結果ではなく、思考により到達した結論でもない。それは直接的な直感的な体験である」

五感の結果としての経験ではなく、それでも経験としかいえないものがある。だから神秘家は経験論者とも言われる。また、このような感覚を持つ人を神秘家というのであれば、そして、キリスト者は聖霊を感じているのであれば、その限りではキリスト者も神秘家と言われてもいいのであろうと思う。

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バチカン声明

最近のバチカン声明に関して、プロテスタントのA氏とカトリックのB氏の対話を聞いたので、紹介します。

A「バチカンが7月10日、声明を発表して、「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」と言い、プロテスタント教会は「カトリックの教義によれば、その語の本来の意味において『教会』ではない」と言っている。エキュメニズム、教会一致の時代に、何と時代遅れの声明かと、少しがっかりしたよ」

B「そうかい。でも、バチカンは、以前から、そういうことを言っていたと思うよ。別に目新しい声明ではないと思うけど」

A「信仰義認の共同声明があって、バチカンもようやく、プロテスタントの立場を理解して、歩み寄り始めた、これでエキュメニズムの障害も大きなところでなくなった、よかった、そう思っていたのたけれど、何か、ぶち壊しのような気がするよ」

B「エキュメニズムの考え方の前提が双方で違っていたのかも知れないね。プロテスタントでは、諸教会の協力の前進と考えていたのかも知れないけれど、カトリックでは、そうではない。「見える教会の一致」が目標で、これは最初から変わらなかったと思うよ。だから、当たり前に、普通に考えたら、カトリック中心のキリスト教界の再編が、カトリック側のエキュメニズムの真相なのさ。それが最初から分かっているから、プロテスタントの保守的な信仰の人たちは、エキュメニズムに反対していたのさ。なぜなら、この運動に参加していたら、自分たちのアイデンティティがなくなってしまうからね。プロテスタントの自己矛盾になるからさ」

A「プロテスタントでもWCC(世界教会協議会)や、その加盟教会など、いわゆる主流派、保守的信徒に言わせればリベラル派だけどね、その人たちはエキュメニズムには一貫して賛成してきたと思うけれど」

B「そうだね。もともと、その人たちが言い始めたことだからね」

A「今回の声明では、この協力関係が何か歪められて、カトリックに吸収されるような力を感じるね。教会協力の観点からは余り好ましいことではないと思うけれど」

B「確かに。エキュメニズムの目標が「教会協力」なのか、「見える教会の一致」なのか、そこで違いがあるのだろうね。プロテスタントの目標は「教会協力」で、カトリックの場合には「見える教会の一致」なんだろう」

A「そうか。プロテスタントでエキュメニズムをやるということは、自分たちのアイデンティティの危機にぶつかるということかも知れないね。保守派の人たちの危惧が分かるような気がするなあ。カトリックに改宗しなければならなくなるかも知れないね」

B「個人としては有りうると思うけれど、教会としては無理でしょうね。時々、ニューマンの「後続者」たちが現れるけど、今では、余り珍しくもないかも知れない。一般信徒のレベルでは、普通になっているかも知れないね」

A「エキュメニズムの危険さが分かり始めたかも知れない。プロテスタントのアイデンティティを保つためには、保守派に転向して、エキュメニズム反対を表明するか、あるいは、このまま行って、カトリックのイニシアティブに従うか、われわれに突きつけられているような気がする。難しいところだね」

B「しかし、「見える教会」は、あくまで「見える教会」で、それ以上ではないよ。「見える教会」は、「見えない教会」の象徴、暗号と捉えてもいいのじゃないかな。その時、やはりカトリック教会があって、そんな声明を出すという意味もあると考えられるのではないかと思う。別にプロテスタント教会に救いがないと言っているのではないのだから。そこを勘違いしない方がいい。今回の声明を、そういうふうに、そういうニュアンスで考えたら、それは間違いと思うけど」

A「そうか。それで安心した。確かに、言われてみれば、そうだね。われわれは信仰によって直接、「見えない教会」に直行するけれど、われわれの論理では、「見えない教会」が一つであることを現実世界では、どうしても表現できないからね。まあ、エキュメニズムの進展の中で、どういう成り行きになるかは分からないけれど、信仰義認で一致できたのだから、プロテスタントとしてはカトリックに反対する理由はなくなったわけだ。かつては教皇を「反キリスト」と言ってきたけれど、そんな時代は終わったという感じだね」

B「うん、そうだね。時代は動いているね。プロテスタントも、自分たちの原点である信条を守っていくことは大切と思うけれど、それを現代から解釈していくことも必要ではないかな。自分たちを縛っているものを、もう一度、検証してみることだね。しかし、あるいは、気分としては、日本ではそこまで行っていないかも知れない。でも、ITに加速されて、時代はどんどん先に進んでいるような気がするけれど」

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2007年7月12日 (木)

「自己への愛」

「アウグスチヌスの倫理が幸福思想によって支配され、倫理の根源として自己愛が肯定されていた事に関しては、カール・ホルがその卓抜なる論文「アウグスティンの内的発展(Augustinua inners Entwicklung)に於て明にした。「神への愛と隣人への愛との中間に絶えず自己への愛が書き込まれる」「隣人愛の基準は自己愛から規定される」。ホルがアウグスチヌスをば「基督教倫理を堕落させた者」と呼ぶ所以である」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

ニーグレンにも、バルトにも、アウグスチヌス批判があった。ホルにも、あるのだという。

「自己への愛」というのは、「本来的自己への関心」と言い換えることができないだろうか。できた時、それは否定されるべきことであろうか。神のもとに立ち返る我を否定せよというのがキリスト教の教えなのだろうか。

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もったいない

ゴミの山 もったいないと 人は言う
 捨てれば気分 よくなるだろに

ゴミの山の再利用はあるのだろうか。再利用の方法がなければ捨てる以外にないと思うけれど。

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方法

アインシュタインは、ある程度、着想を周囲の人たちに語ることで、深めていったらしい。着想を周囲の人々に語るという方法は、着想を深める方法の一つとして、ある程度、知られていることである。

その話し相手、相棒の一人に、あるいはレオポルト・インフェルトがいたのだろうか。昔、インフェルトの伝記を読んだことがあった。本には大きな顔写真があった。

『アインシュタイン』(P.フランク著)には、彼の「方法」が、こう書かれていた。

「アインシュタインにとっては、社会のなかで考え、むしろまたはそれを口に出すことによって自分の考えを知るに至るのが、いつも楽しいことであったのである」

「アインシュタインは、他の人々から多くの刺激を求めようとはしなかったが、しかも彼は他の人々と何ら接触をせずに孤独のなかで彼の考えを展開することも好まなかった。彼はしばしば彼の心を自由に語ることができるような相棒のあることを好んだ。彼の経歴の初期の頃においてさえ、彼の考えが他の人々に如何なる反応を示すかをみるために他人に提出してみることを好んだ」

彼もまた、対話の名手だったのかも知れない。問題提起し続けることで、自然とサークルが出来てきたのだろう。

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天才

「アインシュタインの父方の祖先と母方の祖先とは、彼の記憶している限りでは、いずれも西南ドイツのシュワーベンの小さな町や村に住んでいた」(『アインシュタイン』P.フランク著)

『アインシュタイン』(P.フランク著)は、アインシュタインの人柄を描いていて、教えられるところが多かった。彼の先祖がいたというドイツのシュワーベンは天才の発生地として有名である。

アインシュタインに魅力を感じるのは、彼の科学的業績よりも、その生き方、探究の方法にあるのではないだろうか。

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教会への信頼

「今はこのように変動きわまりない時代である。このように移り変りが激しく、多くのことが信頼できない時に、われわれが信頼することのできるものがあるであろうか。残念ながら、われわれは地上にあるものは教会すら信頼することができない。地上に実在している見える教会は、誤りと罪に陥ることがしばしばで、われわれは信頼を求めて教会へ訴えることはできないのである」(『神と人間』メイチェン著)

見える教会への不信感はあるであろうけれど、見える教会全体への絶望はあってはならないと思う。それは、見えない教会への道を塞ぐものであるから。

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「学的に弁護」

「キリスト教は実用主義でなく、神秘主義でなく、学的に弁護されうる、又されねばならない真理の宗教である、と言うのはメイチェンの根本的信念であった」(『パウロ宗教の起源』メイチェン著)

実用主義にも神秘主義にも、教えられるところはあると思います。特に、教会の歴史が聖霊降臨という神秘体験から始まっていることを思う時、「健全な神秘主義」を度外視して、キリスト教がどう成り立つのか、と思います。

「学的に弁護されうる」という時、それは理性的ということと思いますが、カントの「純粋理性批判」の中で、宗教的対象への不可知を結論づけたことの意義を思います。それを超えることは出来ないと思います。

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奉仕のため

「ここに、重大な質問がある。それは、選びは、私たち個人の救いよりは、むしろ、私たちの奉仕に関係がありはしないかということである。それは苦悩、きびしさ、心の痛みを多く伴う割りに、安息、平安、喜びといったものはわずかしかもたらさない。だから、神に選ばれた人をねたむ必要はない。彼らは流浪の民であり、十字架を負う者、殉教者であるからだ。しかし彼らは、人里離れた所で神の最も深い学課を身につけ、やがては、あらゆる人の思いを越えた、人間生活にとって貴重な発見を携えて、人々のもとに帰ってくるのである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

救いの喜びの表現には、「ああ、うれし」などの讃美歌がある。もっとも、最近の歌集には入っていないかも知れない。しかし、実は、救いは奉仕のためではないだろうか、という指摘がある。洗礼のあとに堅信がある。それは奉仕の力のためである。聖霊のバプテスマもそうだ。しかし、どういう形で奉仕したらいいのか。現代の形があるのではないだろうか。

印刷術が発明されて、宗教改革は進展した。同時に、教会分裂も進んだ。21世紀は、それに代わるものとして、インターネットが出来た。新しい改革は統合を目指しているのかも知れない。今、改革の方法を見つけようと、手探りしているのかも知れない。

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美空ひばり

美しい 空に一羽の ひばり鳴く
 悲しい酒に 泣く顔アップ

7月11日、民放テレビで、美空ひばりの特集がありました。

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完全燃焼

完全に 燃焼すれば 悔いはなし
 悔いが残れば 輪廻は回る

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救われる人

「キリストの名前を聞かなかった人の中にも「信仰を持つ者」もいる」(『聖アウグスチヌス「告白録」講義』高橋亘著)

アウグスチヌスの言葉なのだろう。ラーナーの「無名のキリスト者」を連想する。これには反発もあるらしい。

通常は、救われる前提に信仰、信仰の前提に福音を聞くことがくるのだから、福音を聞く前提を欠くならば、救われる可能性はない、と考えるかも知れない。

そういう立場もあると思う。

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暗号

「われわれは、暗号の世界としての、また暗号相互の戦いとしての、現実のなかに生きている」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

思えば、聖書も暗号に満ちている。そして、暗号は解釈されなければならない。その解釈が正しいかどうか、その基準は何か。内的な充実感かも知れない。

暗号が解釈されない場合には、その暗号は無意味ということである。暗号を読み解くことで一生を過ごしても、それが実存的領域にある場合には、後悔はしないだろう。

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2007年7月11日 (水)

神秘主義

「「基督教は健全なる神秘主義以外の何ものでもない」とヒルティーは言っている」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

同感。シュバイツァーは、神秘主義を神神秘主義とキリスト神秘主義に分けて、パウロには「キリスト神秘主義」があると指摘していた。

弁証法神学者には神秘主義に批判があるようだけれど、聖霊体験を言い、聖化を語るのであれば、それは神秘主義ではないかと思う。

「健全な」という意味は、「超理性ではあっても、反理性ではない」と言い換えることができるかも知れない。

もっとも、「超理性」と言っても、聖化のステージで、理性が働かなくなるという意味ではない。

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聖化の力

「赦しの中に聖化への力が含まれ、赦したが故に聖化するというのが、福音主義的理解である。然るにさきに見た如く、カトリック主義に於ては逆に、聖化したが故に赦すのである。宗教改革の意義はこの微妙なる相違に対して感覚をもてる者にとってのみ、理解されるであろう」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

「聖化したが故に赦す」というのは、聖化のあとに義認(新生、再生)が来るという意味なのだろうか。それがカトリック主義の教えなのだろうか。

アウグスチヌスとトマス・アクィナスの教える教会が、そんなことは言わないと思うのだが。

トマスは、最初、半ペラギウス主義であったが、のち、それを修正して、アウグスチヌス主義に立ったといわれている。

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神の似像

「ベルジャエフに従えば、人間が神の似像であると言う事は、人間自身も創造者であって、神の創造の働きに参加するべく召されてあると言う事である」(『神秘主義・象徴主義』)

「神の似像」とは、ある意味で悩ましい言葉である。「神の像」を意味しているのか、「神の似姿」を意味しているのか。その二つの混合の意味か。

ベルジャエフの全体的論調を読むのであれば、これは、「神の像」ではなくて、「神の似姿」を意味しているのだと思う。彼自身は、そういう区別に頓着しないかも知れないが、私は、区別すべきと思う。

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完全

「人間は、認識において無知と錯誤から完全であるときのみ意志において罪から安全でありうるのである」(『トマス・アクイナス 言葉の鎖』91頁)

人は生涯、無知と錯誤から解放されていない。しかし、ウェスレーは、それらに由来する結果を「完全」とは区別している。しかし、トマスにおいては、それらもまた罪と言われているのではないだろうか。

無知と錯誤から何事かをなす時、それは罪というのか、いわないのか、罪の定義の違いがあるのかも知れない。

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キリスト教国

「主権の誘惑は、キリストが荒野において拒否した誘惑の中の一つである。悪魔は高い山から、「世のもろもろの国と、その栄華と」をキリストに示して、彼がそれに膝を屈し、それを拝すべきことを提議した。恐らくキリストの精神的幻想の前に示されたこの諸王国は、すべて、自らキリスト教国と称するものとなり、終末の時まで主権の変転極まりない形態であったろう。キリストはその誘惑を拒否した。すなわち、永久に世のあらゆる王国との関連において拒否した。しかしキリスト者は、このキリストの例に従わなかった。彼らはキリストの王国と世の王国とを滑稽にも混同し、併合し、合同して主権の前に跪前した。キリストは、彼らに「神の国とその義とを求めよ」と訴えた。けれども、キリスト者は終始「さらば凡てこれらの物は汝等に加えらるべし」と言われたその物のみを求めて来た。彼らは、神の国を求めることはこの世の王国を破壊しなければならないのではないかと恐れた。かくして彼らは、ドストエフスキーの言う如く、大審問官として、キリストの行為をおこがましくも修正した」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

キリスト教国の「真相」に関する、一つの解釈ですが、これは、ドストエフスキー、ベルジャーエフの解釈であって、唯一の正しい解釈というものではないと思います。

サタンの誘惑は、イエスの在世中のことで、イエスの復活後には、「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている」(マタイ28・18)との言葉があります。キリスト教国の主権と、マタイ28・18の言葉との関係は、どうなっているのでしょうか。

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神の現前

「吾は神に没入すると共に神は俄然吾に現前するのである」(『プロティノス』鹿野治助著)

これは信仰義認、新生の瞬間の消息であろう。また、聖霊の満たしの体験のことでもあるかも知れない。

しかし、新プラトン主義者のプロティノスが、どうして、こういうことが語れたのだろうか。

プラトンの理想を現実にできたきっかけは、何であったのだろうか。

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日本の使命

原爆、東京大空襲、それらは一体、何であったのだろうか。

被爆国が世界で日本だけというのは何を意味するのだろうか。

日本に、特別な使命があるというのだろうか。

イエス誕生の時、ベツレヘムとその地方全体で、イエスを狙った大虐殺があったという。日本への原爆投下、東京大空襲は、日本の使命をつぶそうとするサタンの攻撃と考えることは、一つの空想である。

しかし、唯一の被爆国・日本には特別な使命があるという考えは不自然ではないかも知れない。

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人間

人不思議 ものに意識の 歴史あり
 無数の人の かかわりがあり

人は肉体である以上、「もの」でもありますが、その中には、「意識」の歴史があり、それが、普通の「もの」にはない人独特の不思議の原因になっているようです。

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2007年7月10日 (火)

戦争の予防

「戦争は客体に対してのみ可能である。諸君は主体に立って戦争をなし得ない。もし君の敵の中に主体、具体的な人間、人間人格を認めるならば、戦争は不可能になる。主体と考えられるもので、しかも憎しみから殺そうと欲する相手というものがあるだろうか。私はそんなものはないと思う」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

まず、私が主体になる。そして、主体の輪を作る。敵の本当の思いを引き出して対話する。そうすれば戦争はなくなる。

正義を主張し、対話の場を常に持つ。相手の正義に共感する。強い人間関係が出来れば、戦争の予防になる。

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特権

「なぜあなたは、あなたのすぐれた特権をもっと活用しないのか。人生は、神と人との長い語り合いであるべきだ」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

多くの人たちは、特権の自覚なしに過ごしているのかも知れない。信仰によって、人間には無限の力がある。しかし、それは人間礼賛のためではない。

神との語り合い、それは魂が日々、神の恵みを感じている中で、現実化している。恵みの意識がなければ、神は死んでいる。

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教会の構成員

「我々は教会と呼ばれる見える実体は、キリストのからだに実際に、また真実には属さない者たちをその構成員の中に含み得るという変則に直面する。人間の警戒が、その権限内で最大限に行使されても、キリストの教会に真実には属さない人々を、教会に受け入れることがあり、人間の管理が関係する限りでは必然的に受け入れてしまうことがある」(『キリスト教洗礼論』ジョン・マレー著)

著者はプロテスタントの神学者である。改革派では幼児洗礼を行うのだが、その弁証で書かれた本であったかも知れない。

引用個所に異論はない。事効論的な教会理解は、見える教会の安定のためではあっても、新生者、再生者だけの教会にはなり得ないと思う。

その試みが、宗教改革後、バプテスト教会で行われた。新生者のみの教会をつくろうとしたのであった。「滴礼はだめで、浸礼でなければいけない」という主張が、この教会の主張のように思われているが、バプテスマの形の問題よりも、その儀式の前に新生を求めるという方が、この教会の目指すものを示しているように思う。

浸礼こそ聖書的で、滴礼は聖書的ではないとか、幼児洗礼は認められないとか、いや、幼児洗礼は聖書的だとか、近世・近代のキリスト教(プロテスタント)は多くの議論を繰り返してきた。そして、「聖書的」とは、相手を批判し、断罪するために、よく用いられてきた。その中で、一般の信徒は迷うばかりである。どちらが正しいのであろうか。

見える教会の必要性と限界を思う時、教会の正しい理解に導かれるのではないだろうか。

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教育再生

「都会人的な要領のよさ、といったものから彼がどれほど離れていたかは、彼の経歴そのものにもすでに気づかれただろうが、例えば教育論の一部として、次のようなコトバがある。試験に「『甲』をとる人間にわたしは懐疑的です。…試験で答えるべく期待されていることを答える能力とか。それを答えて易々としているような態度はある浅薄さと皮相さとを示しています。『乙』をとる人間は、少し鈍いかもしれませんが、頭の鈍さは独立的な思索に先行する一つの条件です。…」彼自身が、まさに『乙』的人間であった。みずからの問題意識をあくまで独立に追いつづける執拗さは、真の探究者を学問商人から区別するものである」(『ホワイトヘッドの哲学』市井三郎著)

ゆとり教育は乙的人間を目指したのではないだろうか。そして、教育再生とは甲的人間を目標にするのではないだろうか。それでいいのだろうか。

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改宗

「カトリックの信仰に対しては、次のようなコトバが彼の態度をよく示唆するであろう。「プロテスタントとして育ちながら、後でカトリック信仰に改宗する教養あるひとびと…は歴史を読んでいながら、それを理解しなかったか、あるいは歴史というものを知らないひとびとのように、私には映るのです」」(『ホワイトヘッドの哲学』市井三郎著)

英国のホワイトヘッド(Alfred North Whitehead、1861年2月15日~1947年12月30日)の生涯は86年で、最初は数学者であり、37歳で処女作を発表、その後、哲学に移り、63歳で哲学教授に就任したという、遅まきの人でした。ハーバード大学教授で、プロセス神学で宗教界に影響を与えたとのこと。プロセス神学は日本では一部の人たちが紹介していますが、余り知られていないのではないでしょうか。

その紹介の本の中に、プロテスタントからカトリックに改宗する知識人へのコメントがありました。無教会の塚本虎二にも、そういった見解があったと思います。

しかし、改宗者がいてもいいと思います。プロテスタントのアウグスチヌス理解は、ペラギウス論争を継承するもので、彼には、ドナティスト論争という別の面もありました。そちらでは別の理解も生まれるのではないかと思います。それは批判的な受け止め方になるかも知れませんが、そこから見えてくるものもあるかと思います。

トマス・アクィナスにおいては、カトリック教会全体の評価が高いので、プロテスタント信仰者としては警戒するかも知れません。しかし、その魅力は、知る人にとっては絶大なものと思います。

プロテスタント信仰者としては、信仰のアイデンティティの確立のためには、カトリック批判を頭のどこかに置かないといけないのだと思いますが、カトリック信仰者としては、この教会は、アウグスチヌスとトマス・アクィナスの属し、信じた教会であり、この二人を除いたら、キリスト教が分からなくなるのだという思いで、この教会に、心安らかに留まることができると思います。

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プロティノス

アウグスチヌスの回心の過程で、プロティノスの新プラトン主義の影響が語られる。米国の改革派関係の神学者たちからは、何か批判的な意見を聞くのだけれど、カトリックの人、例えば、カール・アダムからは肯定的な響きを聞き取る。あるいは、もっと確かめなければいけないのかも知れないけれど。

しかし、プロティノスを知る必要はあるかも知れない。そして、肯定と否定の根拠も知りたいものだ。

「本質に於いてプロティノスの哲学とキリスト教の考が相容れぬものでないことは、プロティノスの著書から多くを学び、それを生かしているアウグスチヌスに依って証拠立てられたと言ってもよいであろう」
(『プロティノス』鹿野治助著)

「「ミラノの庭園における回心」については、これが本当にキリスト教的神体験であるか、あるいは単に新プラトン的体験であるか(と言いますのは、この後しばらくしてアウグスチヌスが書いたいくつかの作品は、新プラトン主義的色彩が強いものですから)ということが昔から色々議論されております」(『聖アウグスチヌス「告白録」講義』高橋亘著)

逆に回心に疑いを表明している人もいることを示唆している。

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宇宙の完成

内村鑑三は死の前々日、古稀の祝いのため集った人々に、こう言ったと言われています。

「宇宙、万物、人生、悉く可なり。言わんと欲する尽きず。人類の幸福と、日本国の隆盛と、宇宙の完成を祈る」

この最後の「宇宙の完成を祈る」の言葉、これが再臨信仰の表明なのでしょう。

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2007年7月 9日 (月)

共同体の考察

『奴隷と自由』(ベルジャエフ著)には、次のような記述がある。

「テンニースがゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間に設けた区別は、よく知られている。ゲマインシャフトは現実的で有機的である統体である(例えば、家族、階級、村落、国民、宗教団体)。ゲゼルシャフトは理念的で機械的である(例えば、国家)。ゲマインシャフトのうちには温かさがあり、ゲゼルシャフトのうちには冷たさがある」

「教会は精神的な団体であるが、それはまた家族的有機的ゲマインシャフトであり、構成された機械的社会である。この点に教会の問題のあらゆる複雑性がある。精神的共同体のみが、人間を解放する。有機的家族的共同体と機械的構成的社会は人間を奴隷化する」

教会もまた、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの二つの要素を兼ね備えているのだろう。普通は、ゲゼルシャフトを現実的と言いたいところだが、著者は、ゲマインシャフトを現実的という。その現実的は、普通の使用とは、意味が違うのかも知れない。

ところで、注目に値するのは、「有機的家族的共同体」もまた人間を奴隷化すると言っている点である。これはゲマインシャフトなのである。だから、著者は、ゲマインシャフト即解放の力と考えているのではなくて、それに二つの要素を見ているのであろう。

アブラハムは、「有機的家族的共同体」というゲマインシャフトに別れを告げて、新たに、「精神的共同体」という別のゲマインシャフトを求めて旅立ったというべきなのだろう。

日本は国家全体が、どこか、「有機的家族的共同体」のような感じである。その解放的機能の回復が求められているのかも知れないが、なお反省の余地があるのではないだろうか。

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社会的制度

「教会は社会的制度として存在するが、この側面からみる時、それは客体化の世界に属している。人間を自由にすべきであるに拘らず、しばしば彼を奴隷化する教会の存在のうちにある一切の矛盾はこれに由来する」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

教会の社会的制度は、その本質(キリストのからだ)に秩序づけられている「相対的」「手段的」なものと理解すればいいのだけれど、ドナティストとの異端論争における分裂危機を避けるためのアウグスチヌスによる事効論的発想が、いつしか社会的制度の「絶対化」を生む契機になったとは言えないだろうか。

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実存哲学

「彼の独自の宗教的哲学又は基督教的哲学は、その基礎に於て現代の4人の哲学者と特に結び付いていると彼自身が述べている。それはベルグソンの「道徳と宗教の二つの源泉」、カール・ヤスパースの「哲学」特にその第2巻の「実存の照明」、ヘルマン・カイザーリングの「南アメリカの瞑想」及びラ・センヌの「矛盾」である」
(『神秘主義・象徴主義』)

彼とはベルジャーエフです。ベルグソンとヤスパースの本は入手できますが、あとの二人は未知の人たちです。

自分の哲学を「実存哲学」と言ったのは、カール・ヤスパースでした。ベルジャーエフも影響を受けた人に挙げています。「実存の照明」とありますが、「実存開明」という名前の方が一般的と思います。

放送大学で、ヤスパースの実存哲学の講義がありました。新生体験の解説をしているように思いました。サルトルには、この体験がないのでしょうが、ある人にとっては、自分の体験の説明する的確な言葉が、ここにあるという思いがするのではないでしょうか。

ヤスパースは、やはり今でも重要思想家の一人であり続けると思います。

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2007年7月 8日 (日)

宣教と再臨

「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24章・14節)

全世界への宣教があって、それから再臨がある。だから、宣教に励むことは再臨を速めることになるのだ。そんな「理論」をかつて、日本の生んだ著名な大衆伝道者から聞いたことがあった。公開集会の中で、ちょっと触れただけなので、「理論」を語られたわけではない。

なぜ、このことが頭に残ったのだろうか。それは、宣教から再臨へ、という道筋の逆もあり得るのではないかと思うからである。再臨信仰から宣教へ、という道筋のことである。本当は、これが正しい宣教の動機でなければならないのではないかと思うこともある。なぜなら、再臨信仰には、こちら側の動機に一点の曇りもないからである。

しかし、再臨信仰は、信徒の間では通用するが、これが客体化されると、とたんに誤解される。「キリスト者の完全」も、誤解されるから、余り話さない方がよいという勧めもあったと思う。内村が再臨運動をやめたのは、誤解が生まれたからであった。しかし、時には誤解されるくらい関心を持たれてもいいのではないかと思う。

今の日本の宗教界は仏教が席巻しつつあるような感じではある。

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現代の癒やし

現代は 近代を継ぐ その病
 共感なくば 癒やし能はず

近代の病気を癒やすためには、近代への共感が必要と思います。近代への共感のないところで、その病気の癒やしはありえないと思います。

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自分探し

お遍路さんに行くのも、一つの自分探しなのだろう。こちらは徒歩である。

しかし、長い旅であれば疲れることもある。乗り物の利用も一つの選択である。

その乗り物には二つの車輪がある。一つの車輪には「汝自身を知れ」と書いてある。もう一つの車輪には「無知の知」と書いてある。思えば、これらはソクラテスの言葉であった。

また、視点を返れば、「汝自身を知れ」は肯定神学の言葉であり、「無知の知」は否定神学の言葉である。

中世の神学はアウグスチヌスとトマス・アクィナスによって造られたといってもいい。アウグスチヌスは新プラトン主義を通ってプラトンに、トマス・アクィナスはアリストテレスに多くを負っていた。そして、プラトンはソクラテスの弟子、アリストテレスはソクラテスの孫弟子であった。しかし、中世思想におけるソクラテスの意義を余り考えてこなかった。考えれば、中心的人物であったのではないだろうか。

実存哲学は人間学でもある。そして、人間学の原点は、ある意味ではソクラテスであったのではないだろうか。それか彼の二つの言葉による。これらは今でも通用している。

自分探しの旅を勧めているのはソクラテスであった。

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2007年7月 7日 (土)

完全

「あるものが統一されるにつれて、その善性や効力は完全になる」(『トマス・アクイナス 言葉の鎖』55頁)

罪というものは、自分のアイデンティティの喪失を指しているのではないだろうか。内面における分裂のために、心が乱れて、一貫性がなくなる。それが罪の結果なのだろう。それは外面に現れてくる。

しかし、人は、そのままではいられない。万物は神に帰ろうとしてるからである。その神は一者である。その過程の中で、私もまた統一の形成を促される。それに伴い善性や効力も回復していく。完全に近づいていく。

人は、流行りの言葉で言えば、自分探しの旅に出て、自己実現を求めていかねばならない。なぜか。そこにのみ、その人の真の可能性、やがて現実になるであろう可能性があるからである。

現代の福音宣教は、このような自分探しの旅に出ることを勧め、自己実現のための道を提示するという仕方でなら、多くの人たち、特に若者たちの共感を得ることができるのではないだろうか。

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人格の誕生

ベルジャーエフにとっては、人は生まれながらに人格なのではなくて、人格に生まれ出るのだいえるのかも知れない。

それは神体験のうちにある。

「神は実存的領域中に、超越の試みられる体験のうちにある」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

これは回心の説明であろう。そして、おそらく、この体験が、神の存在の唯一の証明なのだろう。こうして生まれでた人格について、彼は語る。

「人格は全面的に世界と国家の市民であることができない。なぜなら彼は神の国の市民であるから。この理由から人格は言葉の深い意味において革命的な要素を含む」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

「革命的な要素」というのは、通常の意味である「サタンの内輪もめ」による「革命」ではない。それらの絶対矛盾的超越の現実への移行を意味している。

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異常体験

「われわれは当時の囚人だった人々が、よく次のように語るのを聞くのである。「われわれは自分の体験について語るのを好まない。何故ならば収容所に自ら居た人には、われわれは何も説明する必要はない。そして収容所にいなかった人には、われわれがどんな気持ちでいたかを、決してはっきりとわからせることはできない。そしてそれどころか、われわれが今なお、どんな心でいるかも分かってもらえないのだ」
(『夜と霧』フランクル著)

異常体験を心に秘めて生きるのは辛いのではないだろうか。なぜなら、それは、無意識のうちに、意識に働きかけて、現実の生活の異常を何度ももたらすかも知れないからである。

われわれは異常体験を語りださねばならない。それは人々のためばかりではなく、自分たちのためでもある。

強制収容所と原爆、二つの体験が現代の異常体験である。女優・吉永小百合さんは、この一つの異常体験について語り続けている。意義深いことである、と思う。

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ニーチェ

「ベルシャエフに思索すべき哲学問題を投げかけたのは、ドストエフスキーとニーチェの二人であると彼自身は言っている」(『神秘主義・象徴主義』)

「Sollt Ihr schaffende sein. (汝ら、創造的なるべし)ニーチェ-ツァラトゥストラ-」『奴隷と自由』(ベルジャエフ著)

「神は死んだ」のニーチェが正しいとは思わない。しかし、問題提起者としては最高であるかも知れない。それは現在でも続いている。「反面教師」のニーチェは「汝ら、創造的なるべし」とも言う。この点に関しては、ベルジャーエフは、ニーチェを「教師」にしたのではなかったろうか。

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人格

「人格が世界に入り来る時--独一にして繰返しのできぬ人格性が世界に入り来る時--世界過程は闖入を蒙り、たとい外面的にはそうした徴候が見えないという事実にも拘わらず、その進路を変更せざるを得ない。人格は世界生命の不断の複雑な過程のうちに位置を占めず、世界の進化における-契機でも-要素でもありえない。人格の存在は断絶を予想する。それはいかなる連続によっても説明し得ない。それはいかなる不断の連続によっても説明し得ないものである」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

私は、ここでイエスの誕生のことを連想する。その遺産でもある教会は進化の産物ではなく、進化とは別の原因を持っている。著者は、人格という言葉を人間の超自然的方向において基礎づけている。

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徳育

徳育は ペラギウスの徒 生み出すと
 そんな気がする 偽善者の群れ

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2007年7月 6日 (金)

人格

ベルジャーエフの著書の中に、『奴隷と自由』(“Slavery and Freedom ”Nicolas Berdyaev)というタイトルのものがあった。これは、名著であると思った。しかし、白水社の著作集には含まれていない。

今では入手は困難なので、時々、紹介していきたい。その中に、こんな個所がある。

「人間のほとんど大多数は、人格からはでき上っていない。この大多数者のうちにおいては、人格は未だ可能的か、あるいはすでに分裂してしまっている」

彼は人格主義を提唱している。人格主義は、かつてキリスト教の教育者たちも語っていたが、今では、余り聞かれなくなった。

人格主義、人間はみな人格である。だから、それは人間尊重主義のことである。そう解釈すると、ベルジャーエフの場合は、少し違うようである。

彼は、人格の価値を高く見ているのであるが、その人格は、人間であれば皆、持っているものとは見ていない。だから、彼の定義で人格の可能的を位置にいる人たちは、彼の立論に違和感を感じるのではないだろうか。

しかし、キリスト者には、彼の意味するところが分かるのである。彼が人格というのは、神の似姿を内に持つ人たちのことである。一般的には神の像の持ち主たちを人間という。だから、人間尊重は、どんな人でも神との関係から言われなければならないが、神の像の持ち主たちは、その上に神の似姿を必要としている。ベルジャーエフの指摘からは、そんな意味を読むことができる。

この個所だけでも、ベルジャーエフの人格主義が、聖化段階の人間の価値を語っていることが分かる。

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決断の時

「少くとも、ある怠慢の罪が、必然的に、信仰の喪失に先立っていなければならない。ある内的な罪が先立っていなければならないのである。しかし、信仰の喪失が、外的な罪を犯すのに先立たなければならない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

ウェスレーの「説教」の邦訳は何冊も出ている。何番目か書いておくべきであった。

この個所を読む時、燃える柴の中から神の声を聴いたというモーセの召命の時を思う。モーセは、最初、ためらったのである。しかし、それは罪を形成しなかった。もし、そのためらいが罪の原因となったのであれば、世界の歴史は変わっていた。その可能性はあったのだろうか。人間的には「あった」と言わなければならないけれど、神的には「なかった」と言うべきであろうか。歴史というものは、人間の自由意志と神の摂理との織物であるけれど、過去の事実には、ただ摂理のみ「ある」のではないだろうか。

罪に関しては、神の言葉を聞く、決断を延ばし、怠慢が続いて、内的な罪を犯す。その時、信仰を喪失する。それが外的な罪の原因となる。そういう経緯があるのだろう。

新生への超越、完全への前進、それらは神の言葉を聞くこと、そして決断の前に出ることを通して、実現するのかも知れない。

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守勢は負け

「神から生まれた者は、自分を守っているなら、罪を犯さないし、犯すことができない、というのは疑いもなく真実である。しかも、もし彼が自分を守らないならば、彼はむさぼるように、あらゆる種類の罪を犯すかもしれないのである」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

完全の達してのち、罪を犯さないようにという守勢的信仰は既に負けているような気がする。それはなお先を待ち望まなければいけない。そして、その先は完成があるのみ。

だから、健全な完全信仰というのは、再臨信仰に支えられている。この点を知らなければ、完全信仰は不健全に陥る可能性を増大させるであろう。

この点をしっかり知ることが、完全信仰に、キリスト者を赴かせる要であろうと思う。

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異言か完全か

「異言体験」と「キリスト者の完全」と、どちらが優位にあるかと言われれば、私は「キリスト者の完全」を選ぶであろう。

なぜなら、異言体験が必須のものであれば、完全の中にもあるわけだし、必須のものでなければ、完全の中にはないからである。しかし、完全は、完成の途上にあって、必須のものだからである。

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2007年7月 5日 (木)

超越と内在

「キリスト教の神が彼岸的、超越的であるのに対して、プロティノスの神は超越的な側面の外に内在的な側面も有っている」(『プロティノス』鹿野治助著)

キリスト教の神は超越的であるだけではなくて、内在的でもあると思う。聖霊は内在的である。

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モーツアルトの如くに

プロティノスの執筆作法は、どうであったろうか。そこには、あたかも、モーツアルトを彷彿させるような「作法」があったらしい。『プロティノス』(鹿野治助著)には、こんな記述がある。

「プロティノスは自分の書いたものを読み返さなかったが、シェストフに依れば、読み返さないのは、それによって固定化をしない為なので、神秘主義の神秘主義たる所以である」

「プロティノスは綺麗な字を書かなかったし又綴を正しく書かなかった。そして、執筆する前に先づ思索して終迄出来上ると、恰も何か書物から書写しでもするかの様にすらすら書いたとポルフュリオスは伝えている。プロティノスは文字に拘泥せず、又読み返さなかった」

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「ごめんね」

信じつつ 苦しみの中 おる人に
 神のごめんね 聞こえるがごと

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現代史の視座

サンフランシスコ講和条約の調印と、日米安全保障条約の調印は、共に、1951年9月9日のことであった。

その前年、1950年6月、朝鮮動乱が始まった。

ということは、日本の独立というのは、朝鮮動乱との関係の中で生まれたのではないだろうか。

憲法の施行は1947年5月3日であった。戦争放棄、軍備放棄の絶対非戦の憲法であった。

それは占領下であったので、それでもよかったが、独立国となると、それでは不安定であった。米ソのイデオロギー対立の間で、主権闘争が始まっては、安定的な政治は出来ない。

そういう思惑の中で、日本の独立と同時に、日米安保が生まれたのではないだろうか。

憲法改正問題にあたって、憲法と日米安保の関係、それが問われているのだろう。日米安保を不変のものとするのであれば、憲法は改正が妥当であろう。憲法は、現実に即したものでなければ意味はない。それに基づく法律は、現実に即したものなのだから。

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埋もれた名著

キリスト教書の文庫本は、カトリック系で聖母文庫があるが、プロテスタント系では余り見かけない。しかし、以前、あった。「REFORMED LIBRARY」という名で何冊が読んだ。その中で、最初に感銘を受けたのが、『近代の不安と基督教信仰』(ベルクワー著、田中剛二訳)であった。この本の元の名は“ Modern Uncertainty and Christian Faith ”というものであった。今では入手できない、埋もれた名著と思う。

解説では、ベルクワー教授(Gerrit C.Berkouwer)は、アムステルダムの自由大学の組織神学教授とあった。

この本が、ベルクワーという人物を知った最初であったが、なかなか迫力のあるものであった。

彼は、自分の信仰的立場を説明している。

そこでは、プロテスタンティズムを歴史的に二つに分類している。

旧プロテスタンティズム(16世紀のプロテスタンティズム)と新プロテスタンティズム(18,19世紀に起った、普通に近代主義という用語と同一視されているプロテスタンティズム)という。彼は、旧プロテスタンティズムの立場であろう。

そして、改革派の立場として、「聖書と神の言との同一視」を挙げて、それに対する批判を二つ、紹介している。それらは、次の通りである。

①「改革派の聖書霊感の教理は、近世の歴史的批評学的探究の結果と矛盾している」(科学的)

②「聖書と神の言との同一視は生ける人格的な生命的な信頼としての基督教信仰の可能性を排除する、と言われる。我らの批評家たちは確説する--全聖書をその対象としている信仰は、もはや真の人格的な確信ではない。信仰と信頼とは生ける人格以外のものには向けられ得ない。我々の信仰を生ける人格の代りに聖書に置くことは、基督教信仰の本質に反する、と」(宗教的)

そして、こう付け加えている。「そして、この二つの立場を受け入れないものが、「根本主義者、ファンダメンタリスト」と呼ばれる」

最近では、原理主義者という言葉が使われているのだけれど、著者らの意味は少しニュアンスが違う。堅い信仰の表明という点では似ているが、理性的問いかけへの対応に対して、原理主義者ではきちんと対応しない面がうかがわれるが、逆に、ベルクワーら改革派系の根本主義者は、メイチェンにしても知的探究を徹底的に行おうとしている点である。

しかし、いま、①、②の立場からの文書は多く、この本の立場が、それらに十分対話しているかという問いかけもあるかも知れない。

特に、②に関しては、バルトを考えているのだろう。こういわれる。

「バルトは、神の言と聖書との間の直接的同一視に就いて語ることを、強く拒絶する。彼はそこに間接的同一性があることのみを容認する」

そこには聖霊の働きが考えられているのだろう。しかし、聖書の見解については、著者は最終的には聖霊に訴えているのである。

「我々は合理主義的弁証によって決して聖書の権威を証明し得ないことを知っている。我々はカルヴィンに共に、またベルジック信仰告白と共に、聖霊の証明のみが聖書の権威を我々に悟らしめる、と云うことを理解している」

聖書の重視は、こうした理解と実践に現れている。

「改革派信仰とカルヴィン主義との創意性は、福音に関して創意的でないことに在る」

「我々の説教壇、我々の教理問答学級、我々の家庭に於て、聖書は生命と死とのための書としての位置を占めている」

そして、こう加えている。「教会は侮蔑されることに於て、何時の時代にも幸福である」

こういう信仰の雰囲気というものを、日本人で漂わせていたのは、神戸改革派神学校の校長であった、故岡田稔氏唯一人であったと思う。

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完全の希望

新生の前であれば、完全の要請は絶望以外の何ものでもなかった。

しかし、新生のあとであれば、完全は手に届くものとなった。これを知らないキリスト者がいるかも知れない。

もちろん、完了形で考えられてはならない。と共に、完了形の一部要素も追い求めなければならない。第二の転機の意味である。

罪がなくなり、完全になったら、キリストは必要なくなるのではないだろうか。しかし、聖化は栄化を求めることがなければ、維持できない。その意味では完全は完成ではない。完全は完成を求め続けなければならない。そこに完全の未完結性がある。

完全は人生の目標である。そして、目標を明確にすることが生き方の極意である。その意味では、ウェスレーは、生き方の極意を体得した人生の達人といえると思う。

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成功人生

成功は 地位富 それに健康か
 来るを拒まず されども追わず

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苦しみ

苦しみは 愛されている 証拠なり
 苦しみながら そを思うべし

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不幸

不幸にも 何か意味ある それ知らで
 不幸を放す 思うべからず

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2007年7月 4日 (水)

哲学と神学

「T.S.エリオットによると、現代哲学の主流は叡智と直観の表現という伝統的な哲学の概念から逸脱しているが、この病弊の根源は哲学が神学から分離されたという事のうちに見出される。彼は、ピーパーが哲学を神学と再び結びつけ、そのことによって哲学をその本来の姿--叡智と直観--に回復させていることを高く評価している」(『トマス・アクイナス 言葉の鎖』ヨゼフ・ピーパー編著、エンデルレ書店、7頁)

この批判はベルジャーエフには当らないだろう。しかし、啓示とか霊的体験とか、理性を超える事柄が、理性を最終的な権威とする学問として成り立つのだろうかという問いはあるかもしれない。

ピーパーはドイツのカトリック思想家で、何冊か邦訳もあると思う。

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摂理

「神を待ち望むことは容易なことではない。神の摂理の軌道はあまりにも大きい。その一つ一つの過程の舞台は、あまりにもかけ離れたところにある。神は長い時代を通して、ご自分の道を発展させられる。しかし私たちはごく短い時間のうちに疲れてしまう」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

40年前、インターネットの時代が来るとは予想もできなかった。しかし、今、現実である。40年前の、読書の際の、小さな覚書が、新しい技術の中で利用される。そして、神を伝える。

万物は神を探している。だから、神を証しする働きには疲れがない。

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40・31)

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動機

創造の 活動の因 思う時
 深淵に落つ 無数の人ら

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忙の字を 眺めて思う 現代を
 我は中世 メメント・モリに
 
 「メメント・モリ」(死を覚えよ)は、中世以来の修道士たちのあいさつであったという。
忙しいは、心が亡びるという意味なのか、と。
 

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二つの種族

人類を二つの種族に分けたのはアウグスチヌスであろうか。「神の国」で、二つの人間類型が語られている。

戦時下のドイツの強制収容所で、自ら極限状況を体験したフランクルも、こんなことを書いている。

「われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶ。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味で如何なるグループも「純血」ではない……だから、看視兵の中には若干の善意の人間もいたのである」
(『夜と霧』フランクル著)

「看視兵の中には若干の善意の人間もいた」という言葉を、私は信じる。そして、このことは、教会の中にも悪人がいるであろう、ということを意味している。

最近は、新しい翻訳が出ている。私は古い翻訳で読んだ。訳者の講義を聞いたことがあったが、ちょうど大学紛争の直前のことであった。その後、心理学関係の関心が高まり、カウンセリングなどの仕事も多くなったと思う。

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哲学の使命

『神秘主義・象徴主義』には、ベルジャーエフの解説があるけれど、その思想活動の視点については、こんな説明がある。

「哲学は伝統的な宗教的民間信仰に対して目覚めた思惟の戦いの中から生起した。而して哲学は創造的思惟の自由なる活動の中に於て生き又呼吸している」

「単なる思惟の遊戯ではない、生ける哲学は常にその中に道徳的、宗教的経験を含めている。従って哲学は或る意味では宗教に依存し、宗教と近密なる内的関係を保たねばならぬ」

哲学は、「伝統的な宗教的民間信仰」を対象化するのだから、ある意味では、そういう信仰にとっては他者である。しかし、「常にその中に道徳的、宗教的経験を含めている」というのだから、ある意味では信仰の中でなされるのであろう。

従来の哲学の立場というものは、前者の強調で、その時の原理は万人共通の理性であった。しかし、その理性を超える「道徳的、宗教的経験」の中においても、認識活動はある。それが彼の哲学であった、と私は思うのだけれど。

そして、これは換言すれば、聖化の途上における認識活動である。

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インテリゲンツィア

「インテリゲンツィアはつねになんらかの観念、とくに社会思想に夢中になり、それに身を棄て献身した。かれらは思想によって生きる力を得、ただそれだけで生きた」(『ロシア共産主義の歴史と意味』ベルジャーエフ著)

ロシア・インテリゲンツィアとはどういう人たちなのか、それを知ったのは、ベルジャーエフの著書を通してであった。今はもうなくなったが、ロシア共産主義には魅力があったのだろうと思う。

そんな魅力、社会思想の観念にかかわった人、社会理論とキリスト教信仰とを結びつけて活動した人に賀川豊彦がいた。この結びつきは彼独特のもので、多くの人は棄てていった。キリスト教社会主義者で、キリスト教を棄てた人は多いのである。その意味では、彼の後継者はいない。この領域は、今も未開拓のままのような気がする。

社会思想は、もちろん政治にかかわるのである。しかし、今の政治に思想があるのだろうか。

いや、あるのだろう。ベルジャーエフが創造活動の結果として表現していったものも、世俗政治の世界では翻訳されて、別のものとして主張されるかもしれない。しかし、それでも、そういう評論の世界がなければ、政治思想も生まれず、政策も成り立たなくなるともいえる。

自殺の問題、これは政治の問題というよりも、宗教の問題であろう。生きる人は、境遇にかかわらず生きる。生きる意味を失った人は、境遇にかかわらず、死ぬことを選ぶのだから。

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2007年7月 3日 (火)

状態でなく関係

「ウェスレーは完全を「状態」としてではなく、毎瞬間成り立つ神との「関係」として捉えている。しかし、きよめられたと告白しながら、次の瞬間、愛と反するような言動が、心の動きが出てくるような不安定な、感情的なものではなく、全き愛は修練されて、人格や性格や人柄とも言える内的な質(habitus)となり、そこに不動性・堅実性・安定性・質性というものが伴う」(『キリスト者の完全』ジョン・ウェスレー著、訳・注 藤本満、イムマヌエル綜合伝道団、28頁)

完全は神から独立した、人の側のある状態なのではなくて、あくまで神との関係の中に維持されていくものという指摘なのであろう。「毎瞬間」という言葉の中に、実存主義の反復思想を垣間見る思いがする。

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地獄を笑う

「すべての地上的な慰めが不足する時、神の子たちに対して、「神の慰めは小さい」のか。そんなことはない。むしろ、苦しみがもっとも多い時には、聖霊の慰めは、それ以上に多いのである。だから、神の子たちは、「滅びが来る時でも、それを笑う」ほどである。欠乏、苦痛、地獄、墓を笑うのである」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

地獄を笑う、と言っても、本当の地獄であれば、笑うことはできないであろう。しかし、地獄という場所は神の臨在のない所なのである。

笑いとばせる地獄とは、人間的な視点から地獄のように見える所なのだろう。しかし、そこに神がおられるのであれば、そこは地獄ではなくて天国である。

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2007年7月 2日 (月)

再臨の時

「主は、我々が神の審きの御座の前に立って救われるために、審かれ、罪せられ給うたのであります。最早かくの如き謙遜をもって来り給う必要はありません」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

再臨というのは裁きの時なのであって、初臨のイエスの場合のように、自分を信じることによって救われるという機会ではないと思う。

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成功の秘訣

成功の秘訣は、自分という存在の目的を、どれくらい絞り込めるかによるのではないだろうか。自分は、このために生きるのだ、という目的意識が、自分にとって、どれくらい、十分に納得できるものであるか、その検証が必要であると思う。

日々の悔いのない生き方の中でこそ、成功が、やがてほほえむ。それは、人間的に見て、成功に見えなくともよい。納得のいく人生であれば、その人にとっては、成功した人生ではないのだろうか。

「神が共にいること、それが一番よいこと」という実感の中で生涯を閉じたジョン・ウェスレーこそ成功者であったと思う。

「私をして一書の人たらしめよ」「あなたは、魂を救うこと以外、何もする必要がない」「私は、私自身が空中を飛ぶ矢のように生を通り抜ける、束の間の被造物である、と考えてきた」(以上、『説教』ジョン・ウェスレー著作集から)という言葉を残しているウェスレーは、人生の成功者であったと思います。

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正しく思う

思ったことは実現する、といった内容の本を書店で見たことがある。古い日記を読んでいて、そこでの思いが今の生活に実現していることを知った。人は日々、思う。それを正しく管理していくことが、人生を切り開く上で大切ではなかろうか。

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善悪の区別

「善悪の区別が起ったと云う事は果して善い事であるかどうかと云う問いに対しては、我々は唯だ逆説的答をしか与ええぬ。即ち一度善悪の区別が起った後は、その区別を徹底させる事が善い事である」(『神秘主義・象徴主義』)

楽園の中においても、善悪の区別はあった。しかし、そこでは悪は可能性としてのみ、あった。楽園追放のあとは、悪は現実として、われわれの内に、またわれわれの外にある。今、善悪の区別の徹底においてのみ、現実的な悪を克服できるというのが、この趣旨なのかも知れない。

その意味では、啓蒙主義は、この趣旨に沿っているかも知れない。

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沃野の眺望

「私たちは、キリストにある神の愛を十分に理解することができないかもしれない。しかし、高く登れば登るほど、いっそう多くのものを見ることができる。聖別された生涯の最高峰は、無限に広がる沃野を十分に見おろすことができるのである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

われわれの視界に映るのは混乱と無秩序ばかり。しかし、ベルジャーエフの創造活動の継続の中で、このような「無限に広がる沃野」が、やがて視界に入るであろうことを期待している。

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孤独な魂の苦闘

「孤独な魂の苦闘や抵抗、努力を見守る目は一つもないと思われても、天国のもろもろの同情が彼に集まっているのである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

天国の同情が集まっているというが、どうしてそんなことが分かるのだろうか。

しかし、自己実現は、この孤独の世界を通過しないでは達成できないと思う。

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公開の場

「公開性という冒険は、すべての個人にとって、一つの人格的な冒険である。それに対しては、締めくくりとして一つのことばがある。各人は、自分が公開の場にはいりたいか、はいりたくないかと、自分で決定する」
(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

誰も公開の場に入ることを強制されてはいない。しかし、公開の場に入ることは冒険であり、リスクを伴う。それにもかかわらず、今では、安易に誰もが、公開の場に入ろうとしている。インターネットは公開の場である。

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選挙近し

街頭で 共産党の 女性たち
 マイク手にして 道を説く日々

共産党の女性候補が活動が目に付く日々です。生活に密着した政策が共感を呼んでいるのでしょうか。

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きよめの信仰

東京聖書学院の小林和夫師退任講演「ウェスレー神学と情熱」がインターネットで紹介されています。

http://www.jhc.or.jp/tbs/kobayashi/01.html

そこに、ウェスレー神学の特色として「先行的恩寵の教理」「キリスト者の完全」「確証の教理」の三つが挙げられています。

その中で、「きよめ」という経験が「キリスト者の完全」であるという説明がされています。この「きよめ」というのは瞬間的・自覚的な経験です。

瞬間的というのですから、常にある、というものではないと思います。ということは、この瞬間は「キリスト者の完全」であったけれど、その瞬間が過ぎ去れば、その「完全」はなくなっている、という解釈でしょうか。

いや、そうではないかも知れません。「きよめ」の瞬間があり、その状態は、その後も継続する。だから、「キリスト者の完全」は、「きよめ」の後のキリスト者の状態である、そういう理解なのかも知れません。

説明によると、「きよめ」の瞬間があり、その後も、成長が続くという考え方のようです。

「きよめ」は一回限りの経験なのか、という問いがあります。新生の後に「きよめ」があるという理解はいいのですが、それは一回きりの体験なのでしょうか。新生が一回限りの経験であるというのは、それでいいと思いますが、「きよめ」が、もし聖霊の満たしと言われるのであれば、それは何度もありうるのではないかと思います。

キリスト者の完全とは、聖化の本質なのだと思います。聖化の道の中に常にあるもの、そして、聖化のゴールである栄化(再臨)へと、信徒の目を向けさせるもの、それがキリスト者の完全であると思います。それが自覚された時、「キリスト者の完全」という言葉が出てきたのだと思います。

新生後のキリスト者は、その自由意志を何に向けるか、それは大切なことです。その時、聖化のゴールに目を向けるべきです。それは栄化(再臨)なのですが、それをもっと分かりやすく、実践的に言い換えたものがキリスト者の完全ではないかと思います。その意味では、これは、ウェスレーにおける「再臨信仰」と言ってもいいのかも知れません。

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2007年7月 1日 (日)

救いの確証

マックス・ウェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもよく引用されているが、その洞察は、果たして正しいのだろうかという疑いを持っている。救いの確証が地上生活の成功に左右されるという、ピューリタニズム、カルビニズムの思想は、真正のものであろうか、どこか違うのではないだろうか、という疑いである。

それは、富の背景として、こういう解釈もあるからである。

「もし人間がただサタンにのみ仕えることを望むなら、サタンは、人間の要求するものを必ず与えるであろう。富、名声、地区、権力、これらはすべて悪魔の贈物の中に入っている。彼はこれらのものを所有しており、彼の悪意がひそんでいる目的を達成するために、それを実際に人間に与えるのである」
(『キリストの危機』キャンベル・モルガン著)

これでも、地上生活の成功が、救いの確証をもたらすと言えるのであろうか。

以前、カルビニズムを生み出した改革派関係の書物を読んだことがある。ルターの宗教改革を完成させたのがカルビンであったと書いてあった。そういう解釈は一般的なのだろう。

信仰義認で宗教改革は始まった。しかし、救いの確証をこの世での成功・失敗に求めるのは、信仰義認の教理の逸脱ではないのだろうか。そこでは、宗教改革の原理が曲げられているのではないだろうか。そんな疑問を感じている。

もちろん、カルビンは信仰義認の教えに立っているのであるけれど。

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キリスト者の完全

完全は 完全者との 交わりの
 確認それに 信頼のこと

完全を 餞別に言う 自灯明
 釈迦の気持ちに なぞらえながら

自灯明というのは、正しくは、自灯明法灯明というのでしょう。

辞書によれば、「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること」で、涅槃経によると、釈迦入滅時の最後の教えとのことです。

この自灯明法灯明に託そうとした釈迦の餞別の気持ちと、これから伝道に赴こうとしている伝道者に対して神学教師の贈る「キリスト者の完全」の言葉が、どこかで響きあっているような気がしています。

もちろん、神学教師が「キリスト者の完全」を若き伝道者の卵への餞別として選ぶかどうかは知りませんけれど。

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キリスト者の完全

キリスト者の完全とは一つの体験ではなく、一つの自覚ではないだろうか。聖霊の満たし、聖霊のえい満といった体験での招きがキリスト者の完全に含まれるといってもいいかもしれないが、それだけではないように思う。
キリスト者の完全とは聖化の本質の自覚を指すのではないだろうか。それは自己の完全ではなく、内住のキリストの完全であり、その自覚のことである。

完全聖化という言葉があるように思う。この地上の生において、聖化が完成し、逆転しないという意味であるならば、それはウェスレーの主張ではないであろう。なぜなら、自由意志を認める限り、地上では堕落の可能性がなくならないであろうからである。だから、完全聖化を意味するキリスト者の完全は、キリスト者の完全の誤解なのだろうと思う。

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