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2007年7月19日 (木)

我意

「地獄にて燃ゆるは我意のみ。されば汝自身の我意を去れ、さらば地獄はなかるべし」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)

我意とは何か。罪に染まった自意識というものだろうか。その時、「我意を去れ」とは、罪を分離して捨てよ、という意味で、自意識をなくせ、という意味ではないだろう。自意識は死後もなくならない。

「罪を分離して捨てよ」というのは、信仰によって、キリストの義のマントをいただき、それですっぽり身を覆うことかもしれない。そこでは、自意識はあり続ける。そして、神と人との関係が変化するから、自意識にまとわりついていた「罪」も活動をやめる。

信仰義認とは、こういう理解でいいのだろうか。

しかし、そのあとに新生と聖化が続くのだろうと思う。それは、神から来る聖霊という神の内住であり、その感化というものかも知れない。

信仰義認というのは、神と人との関係の変化、新生・聖化というのは、信仰義認に基づく、人間自身の変化という理解でいいのだろうか。

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