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2007年7月11日 (水)

聖化の力

「赦しの中に聖化への力が含まれ、赦したが故に聖化するというのが、福音主義的理解である。然るにさきに見た如く、カトリック主義に於ては逆に、聖化したが故に赦すのである。宗教改革の意義はこの微妙なる相違に対して感覚をもてる者にとってのみ、理解されるであろう」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

「聖化したが故に赦す」というのは、聖化のあとに義認(新生、再生)が来るという意味なのだろうか。それがカトリック主義の教えなのだろうか。

アウグスチヌスとトマス・アクィナスの教える教会が、そんなことは言わないと思うのだが。

トマスは、最初、半ペラギウス主義であったが、のち、それを修正して、アウグスチヌス主義に立ったといわれている。

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コメント

こういうことが言われるのは、なぜなのだろうか。

プロテスタンティズムの本質というのは、洗礼論への問いなのだと思う。あるいは事効論的洗礼論の定義の問題なのだと思う。信仰義認というのは、そこをついているように思う。

キリスト教が体制化し、超越の原点である洗礼が事効論的に、必ずしも再生・新生の実質を伴わないと受け止められた時、それていいのか、そういう疑問と問いが起きたということなのだろう。

投稿: | 2007年7月12日 (木) 05時21分

聖餐論に関して、ルターとツウィングリに対立があった。事効論的理解のルターに対して、ツウィングリは、その実質に注目して認めなかったのだろう。カルビンは、その間に立ったのかも知れないが、事効論的理解には立たなかったのだろう。これは、一体、何を意味しているのだろうか。三者を包容するような立場はあるのだろうか。そこでは異端論争があったとは思えないからである。プロテスタンティズムの中で起きた、教会一致運動というものは、この対立の解釈を求められているのではないだろうか。しかし、ただ歴史的事実としてのみ知られていて、その解釈の試みはなされていない。それはまた、教会一致運動の原点想起が、まだ徹底していないということなのだろうか。

投稿: | 2007年7月12日 (木) 06時27分

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