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2007年7月15日 (日)

教会

CJC通信によれば、バチカンの最近の声明に関して、世界教会協議会(WCC)は2006年2月の第9回大会での見解を確認したようです。そこには、こうあるとのこと。

「各教会は公同の教会であるが、その一部ではなく、またその全体ではない。他の教会と一致している時に、各教会は公同性を充足する」

要するに、これがプロテスタントのエキュメニズムの精神というものなのでしょう。それは、教会協力の推進であって、その中で、各教会の主体性は完全に守られています。バチカン声明をそのまま受け取ると、カトリック教会への吸収路線になります。

WCCによれば、公同性とは、他の教会と一致している時に現れてくるというもので、それを促しているものの、現に「ある」ものとしては見ていない。

「各教会は公同の教会であるが、その一部ではなく、またその全体ではない」という個所も、解釈が求められていると思います。

教会の協力と一致の中での公同性の実現が、教会の目標となっている。「公同の教会の実現」、それは「静的な見える教会」ではなくて、「動的な見える教会」のようにも思います。カトリックの方は、「静的な見える教会」を目指しているのでしょう。

一方、ルーテル世界連盟でも、「驚きと失望」を表明しているようで、バチカン声明を受け入れることが出来ないといっているようです。しかし、目新しいものではない、との指摘もしています。

使徒継承が必要だ、とバチカンは言うのですが、ルターは、信仰義認と使徒継承の選択を迫られて、使徒継承を捨てた、という理解なのであれば、この点に関しては、両者の現実理解に違いはないと思います。ルター派教会が、使徒継承を言うのであれば、カトリックとは別の解釈の中で言われているという意味です。

ただ、「見える教会」と「見えない教会」との比較が指摘されていなかったというのが、残念でしょう。

教会、公同性、「見えない教会」、それらの関係を探っていけば、理解は、もっと深まるのではないでしょうか。カトリック教会の公同性は「見える教会」において考えられていて、プロテスタント教会では「見えない教会」において考えられているのですから。カトリック教会は、「見えない教会」を認めないとなると、現実の解釈が、なお困難になると思うのですが。

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