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2007年7月21日 (土)

マリア

イエスの周辺には三人のマリアがいた。母マリア、マグダラのマリア、マルタの姉妹のマリアであった。三人とも、いろいろな物語をわれわれに与えてくれている。その中で、比較的、語られないのは、マルタの姉妹のマリアである。しかし、このマリアは、キリスト者の生き方の中では、ある意味では、一番身近な存在なのではないだろうか。

マグダラのマリアとの関係は、差別され、抑圧されている人々へのイエスの眼差し、かかわりの象徴の意味も持っているのであろうか。そして、マルタの姉妹のマリアは瞑想的生の活動的生への優位を意味しているのであろうか。

最近、霊性という言葉をよく目にする。最近といっても、その「盛り」は過ぎたかも知れないくらいの最近である。

よく分からない言葉であった。しかし、キリスト者が、この言葉に触れた時に、聖霊と翻訳してみれば、どうだろうか。完全に一致しなくとも、一般(いくらかキリスト教界も含むけれど)には「霊性」という言葉で、「聖霊」体験の重要性が語られているのだと、解釈するのである。その時、時代の求めが、よく分かるのではないだろうか。そして、聖霊と翻訳した時の比較をすれば、事態の理解は深まるであろう。

座禅に関心を向けるカトリックの神父さんがいる。瞑想の「手段」という位置づけなのかも知れない。もちろん、禅宗の方では、「手段」的位置づけは、困るかも知れない。

瞑想は、いかにして可能なのであろうか。それは、キリスト者にとっては、新生後の聖化の過程における、聖霊の魂への直接的働きかけへの注視を意味するのではないかと思う。それが、マルタの姉妹マリアの象徴するものなのではないだろうか。それは至福に近い。マルタよりマリアが優位に立つのは、その意味なのだろう。

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