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2007年7月20日 (金)

預言と異言

預言も異言も体験しないでは分かるものではない。だから、未体験者としては、それらを非神話化して、解釈して受け止める以外にない。

預言も異言も、聖霊の能力といった印象を受ける。しかし、聖霊を受ける、という言葉に、その能力を含まない場合もあるだろう。新生と聖化が、聖霊の働きであり、ふつう、そこには、人の目には異常に見える預言と異言はない。新生と聖化で十分ではないのだろうか。そういう信仰があっても、いいのではないだろうか。

原点は聖霊降臨である。その結果としての「預言と異言」である。初代教会には、それがあった。今もあるのだ、と、ある人たちは言う。しかし、りんごの味は、食べた人でなければ分からないように、その賜物を受けた人でなければ分からない。

聖霊を受けた時からの表現活動は、一般の人々には、分からない言語によるものだろう。ここに異言の非神話化的解釈がある。しかし、また、同じ、聖霊を受けた人には、ある意味で分かる言葉であろう。ここに預言の非神話化的解釈がある。

こうして見ると、聖霊降臨後の人間の表現活動は、異言と預言で、すべて言われている。なぜなら、この世には、信者と未信者の二種類の人たちしか、いないからである。

私は、これからも、預言と異言の賜物はもらわないかも知れない。しかし、非神話化的解釈によって、この聖書の記述と、ある意味で積極的にかかわることができる。

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コメント

「聖霊のバプテスマ」というものは、異言、預言を伴うものと言われています。非神話化的解釈など無用のものと思う人も多いでしょう。それはそれでいいと思います。しかし、ペンテコステ系でない教会の場合には、解釈による関係づけが必要になるだろうと思います。

投稿: | 2007年7月21日 (土) 10時46分

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