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2007年7月18日 (水)

神の実感

「われわれは、この魂の反応(それが何と呼ばれようとも)が、魂の中における神の命を存続させる為に、絶対に必要である。なぜなら、魂が神に反応しなければ、神は魂の上に働きつづけられないからである」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

この魂の反応というのは、神の実感を意味しているのだろう。その感覚について、ムーディーは、こう言っている。

「私は丁度風が顔を撫ぜるのを実際感ずるように、心の中に働き給う神の霊を感じている」(『神への道』D.L.ムーデー著)

神の実感というのは聖霊の実感といってもいい。だから、ここに「風」という言葉があるのも、象徴的に意味があるかも知れない。でも、ここでの感覚は五感ではない。五感ではない感覚を何と呼ぶのかは知らないが、しかし、ある。

五感を通さない直接的な神の感覚、それをウェスレーは霊的感覚と言っているらしい。

「ウェスレーは霊的感覚の教理を展開した。霊的感覚とは身体的五感による自然的感覚と同様、心に聖霊が働いて与えられる感覚、霊的感覚である。神の子であるとする神の証言は霊的感覚を通して十字架の意味が明白になり、この聖霊の証による義認の確証はすべてのキリスト者に特権として与えられる。霊的感覚が聖霊の働きで目覚めた時、罪人を義とする神を直接知る。この神認識は身体的五感に基づく一般的認識と同様、確かさの伴う知覚しうる知識である」(『メソジストって何ですか』清水光雄著、教文館、43頁。注部分は略)

しかし、この強調は、熱狂主義者と誤解されるかも知れない。だが、議論すべきではないだろうか。きちんと理解するために。そして、誤解をまき散らさないために。

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コメント

「ジョージ・フォックスは感受性が強く孤独を愛する者であった」(『ジョージ・フォックス』山室武甫著)

この場合の感受性が霊的感覚なのではないだろうか。霊的感覚が活発に働いていたから、孤独を愛するという性格が生まれたのではないだろうか。あるいは、孤独から霊的感覚が生まれたのかも知れないが。

投稿: | 2007年7月19日 (木) 07時45分

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