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2007年7月16日 (月)

カトリック教会

「岩下さんは「信仰の遺産」という本の中で、カトリック教会の特質を人物中心主義の逆だということを非常に強調しておられる。特にこれはプロテスタント教会、なかんずく無教会主義を相手どって強調しておられるんですけれども、カトリック教会では「あの人物」「この人物」というようなことは問題にならない。なぜかというと、サクラメント中心の教会だから、サクラメントの執行者は人物でなくたっていいというのですね」(『現代日本のキリスト教』)

これは確か、北森嘉蔵氏の発言であったと思う。岩下とは、岩下壮一神父のこと。「サクラメントの執行者は人物でなくたっていい」とあるが、この人物は「人間」という意味ではなくて、「カリスマ的人間」という意味なのだろう。

プロテスタントは特に説教を重視している。だから、プロテスタント教会、特にカルビン系教会の説教を聞いて、カトリックの説教を聞くと、幻滅を感じることもある。説教で、キリスト者の成長を考えるなら、プロテスタント教会の説教を聞いた方がいいと思う。

しかし、カルビンに心引かれ、ウェスレーに心引かれ、内村鑑三に心引かれ、そういう現実を、自分の心に感じる時、選択に迷う。一つを選択するということは、その他を捨てることを意味するのだから。プロテスタント教会群の中に立って、どれを選択すべきか、という課題に直面する時、これは大変困難な課題である。

そんな時、カトリック教会にいくらかは目が行くのである。そこでは説教は、あるいは貧しいかも知れない。しかし、別に説教だけで信仰の成長がもたらされるのでもない。いろいろなチャンネルがある。そのチャンネルをうまく活用すればよい。そう思うなら、この教会にも目が向くかも知れない。

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コメント

諸教派の存在というものは、当然、教派の選択というものを、人に求めているのだと思う。キリストを選択するということは、実存的な選択である。それは「あれかこれか」の選択である。しかし、教派の選択というものは、少し違うのではないだろうか。自分の賜物も選択、生き方の選択、それらと呼応する教派が選択されるのではないだろうか。教派を選択して、その教派の賜物が自分に与えられるのか、自分の自己分析が先で、それにふさわしい教派があとなのか。教派の多様性は、キリストが大勢いるというのではなくて、賜物の多様性の結果なのかも知れない。そう考えると、教派の優劣をつけるということは愚かなことである。しかし、人は、その愚かなことをしがちである。

投稿: | 2007年7月18日 (水) 06時26分

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