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2007年7月 6日 (金)

決断の時

「少くとも、ある怠慢の罪が、必然的に、信仰の喪失に先立っていなければならない。ある内的な罪が先立っていなければならないのである。しかし、信仰の喪失が、外的な罪を犯すのに先立たなければならない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

ウェスレーの「説教」の邦訳は何冊も出ている。何番目か書いておくべきであった。

この個所を読む時、燃える柴の中から神の声を聴いたというモーセの召命の時を思う。モーセは、最初、ためらったのである。しかし、それは罪を形成しなかった。もし、そのためらいが罪の原因となったのであれば、世界の歴史は変わっていた。その可能性はあったのだろうか。人間的には「あった」と言わなければならないけれど、神的には「なかった」と言うべきであろうか。歴史というものは、人間の自由意志と神の摂理との織物であるけれど、過去の事実には、ただ摂理のみ「ある」のではないだろうか。

罪に関しては、神の言葉を聞く、決断を延ばし、怠慢が続いて、内的な罪を犯す。その時、信仰を喪失する。それが外的な罪の原因となる。そういう経緯があるのだろう。

新生への超越、完全への前進、それらは神の言葉を聞くこと、そして決断の前に出ることを通して、実現するのかも知れない。

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