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2007年7月 5日 (木)

埋もれた名著

キリスト教書の文庫本は、カトリック系で聖母文庫があるが、プロテスタント系では余り見かけない。しかし、以前、あった。「REFORMED LIBRARY」という名で何冊が読んだ。その中で、最初に感銘を受けたのが、『近代の不安と基督教信仰』(ベルクワー著、田中剛二訳)であった。この本の元の名は“ Modern Uncertainty and Christian Faith ”というものであった。今では入手できない、埋もれた名著と思う。

解説では、ベルクワー教授(Gerrit C.Berkouwer)は、アムステルダムの自由大学の組織神学教授とあった。

この本が、ベルクワーという人物を知った最初であったが、なかなか迫力のあるものであった。

彼は、自分の信仰的立場を説明している。

そこでは、プロテスタンティズムを歴史的に二つに分類している。

旧プロテスタンティズム(16世紀のプロテスタンティズム)と新プロテスタンティズム(18,19世紀に起った、普通に近代主義という用語と同一視されているプロテスタンティズム)という。彼は、旧プロテスタンティズムの立場であろう。

そして、改革派の立場として、「聖書と神の言との同一視」を挙げて、それに対する批判を二つ、紹介している。それらは、次の通りである。

①「改革派の聖書霊感の教理は、近世の歴史的批評学的探究の結果と矛盾している」(科学的)

②「聖書と神の言との同一視は生ける人格的な生命的な信頼としての基督教信仰の可能性を排除する、と言われる。我らの批評家たちは確説する--全聖書をその対象としている信仰は、もはや真の人格的な確信ではない。信仰と信頼とは生ける人格以外のものには向けられ得ない。我々の信仰を生ける人格の代りに聖書に置くことは、基督教信仰の本質に反する、と」(宗教的)

そして、こう付け加えている。「そして、この二つの立場を受け入れないものが、「根本主義者、ファンダメンタリスト」と呼ばれる」

最近では、原理主義者という言葉が使われているのだけれど、著者らの意味は少しニュアンスが違う。堅い信仰の表明という点では似ているが、理性的問いかけへの対応に対して、原理主義者ではきちんと対応しない面がうかがわれるが、逆に、ベルクワーら改革派系の根本主義者は、メイチェンにしても知的探究を徹底的に行おうとしている点である。

しかし、いま、①、②の立場からの文書は多く、この本の立場が、それらに十分対話しているかという問いかけもあるかも知れない。

特に、②に関しては、バルトを考えているのだろう。こういわれる。

「バルトは、神の言と聖書との間の直接的同一視に就いて語ることを、強く拒絶する。彼はそこに間接的同一性があることのみを容認する」

そこには聖霊の働きが考えられているのだろう。しかし、聖書の見解については、著者は最終的には聖霊に訴えているのである。

「我々は合理主義的弁証によって決して聖書の権威を証明し得ないことを知っている。我々はカルヴィンに共に、またベルジック信仰告白と共に、聖霊の証明のみが聖書の権威を我々に悟らしめる、と云うことを理解している」

聖書の重視は、こうした理解と実践に現れている。

「改革派信仰とカルヴィン主義との創意性は、福音に関して創意的でないことに在る」

「我々の説教壇、我々の教理問答学級、我々の家庭に於て、聖書は生命と死とのための書としての位置を占めている」

そして、こう加えている。「教会は侮蔑されることに於て、何時の時代にも幸福である」

こういう信仰の雰囲気というものを、日本人で漂わせていたのは、神戸改革派神学校の校長であった、故岡田稔氏唯一人であったと思う。

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