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2007年7月10日 (火)

教会の構成員

「我々は教会と呼ばれる見える実体は、キリストのからだに実際に、また真実には属さない者たちをその構成員の中に含み得るという変則に直面する。人間の警戒が、その権限内で最大限に行使されても、キリストの教会に真実には属さない人々を、教会に受け入れることがあり、人間の管理が関係する限りでは必然的に受け入れてしまうことがある」(『キリスト教洗礼論』ジョン・マレー著)

著者はプロテスタントの神学者である。改革派では幼児洗礼を行うのだが、その弁証で書かれた本であったかも知れない。

引用個所に異論はない。事効論的な教会理解は、見える教会の安定のためではあっても、新生者、再生者だけの教会にはなり得ないと思う。

その試みが、宗教改革後、バプテスト教会で行われた。新生者のみの教会をつくろうとしたのであった。「滴礼はだめで、浸礼でなければいけない」という主張が、この教会の主張のように思われているが、バプテスマの形の問題よりも、その儀式の前に新生を求めるという方が、この教会の目指すものを示しているように思う。

浸礼こそ聖書的で、滴礼は聖書的ではないとか、幼児洗礼は認められないとか、いや、幼児洗礼は聖書的だとか、近世・近代のキリスト教(プロテスタント)は多くの議論を繰り返してきた。そして、「聖書的」とは、相手を批判し、断罪するために、よく用いられてきた。その中で、一般の信徒は迷うばかりである。どちらが正しいのであろうか。

見える教会の必要性と限界を思う時、教会の正しい理解に導かれるのではないだろうか。

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