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2007年7月28日 (土)

罪の結果

「ローマ・カトリックは、人間の罪が人間本性、人間理性を腐敗させたことを認めず、ただ少し傷付けただけであると考えているから、非キリスト者の理性もある程度の正しい神認識を持つという自然神学と或る程度の救いの前提的善き業の実行容認するセミ・ペラギウス主義になる。…罪による神の像の喪失の議論は起こらず、われわれの言葉で言えば、認識的、倫理的な意味でも神の像の残存を承認していることになる」『思想の宗教的前提』(春名純人著、183-4頁)

カトリックの哲学者、エチエンヌ・ジルソンは、罪の結果、人間に起きる変化をこう語っている。

「原罪はどのような結果を人間性の善に生じたかということが問題になるとき、われわれはまずこの善とよばれるところのものを規定しなければならない。じっさい、この善とよばれるものは、三つの異なったものを意味している。第一にそれは、人間性そのもの、すなわちそれの構成的諸原理から生じて、理性をもつ生活体として定義されるところのものである。第二にそれは、人間が善に対して感じる、そして善なるものは一般にそれ自身の善を含有しているから、それなしには人間が生存することもできない自然的傾向性である。第三に、人間性の善とよばれるものは、人間が神から創造のさい与えられ、したがって恩寵としてうけた原本的な正義の賜物である。この最後の意味に解されるとき、人間性の善はその本性の一部分ではなく、それに付加されたもの、したがって原罪によってまったくなくされたのである。第二の意味に解されるとき、人間性の善は真実にその本性の一部分を形成し、したがってなくされることはなく、ただ減ぜられるのみである。すべての行為はある習性のきざしを生ずるものであって、最初の邪悪な行為はさらに邪悪な行為をなす性向を生みだし、かくして善に対する人間の自然的傾向性を弱める。しかしこの傾向性は、それにもかかわらずなお存続して、すべての善の獲得を可能ならしめるのである。最後に、本来の意味における人間性、すなわち人間の本質そのものはどうかといえば、「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」(primum
igtur bonum naturae, nec tollitur, nec diminuitur per peccatum.) のである。このことを否定することは、人間が人間でなくなりながら、しかもなお人間であることを認めるものにほかならないであろう。それゆえ、罪は人間性になにものも付加することもなく、また人間性からなにものも除去することもない--『人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない』(ea enim quae sunt naturalia homini, neque subtrahuntur neque dantur homini per
peccatum.) 人間の形而上学的規定は不変であって、たまたまそれにおこる諸偶有性には依存しないのである」(『中世哲学の精神 上』エチエンヌ・ジルソン著、167-168頁)

罪というものが全的堕落と言われる時、それは、ジルソンが三番目に取り上げているものである。これは原罪でなくなったと言っている。だから、全的堕落について指摘しているのではないだろうか。

付加というのは、「なくなる可能性」を指摘しているのだと思う。だから、「本性の一部分ではなく」と言っているのではないだろうか。

セミ・ペラギウス主義とは、この第三の義の回復に、人間の功績を考慮する考え方であろうが、そこは、新生段階と、聖化段階の混乱があるのではないだろうか。新生段階では、それは全くないが、聖化段階では「人の選択行為の功績の価値」と言われるようなものがあるような気がする。

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